淡水河の漁船
淡水河の漁船は全部、船体を青く塗り必ず目玉が描いてある。
渡し船やレジャー用のモーターボートの船体塗色は様々である。
淡水河の河口には『漁人碼頭』というマリーナーがあるが、そこに発着する観光客目当てのボートや、ウェットスーツを干してあるダイビング用の船舶の色や形は様々である。
しかし漁船はすべて同じ塗色なのである。
台湾のほかの漁港でもそうなのであろうか。
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淡水河の漁船は全部、船体を青く塗り必ず目玉が描いてある。
渡し船やレジャー用のモーターボートの船体塗色は様々である。
淡水河の河口には『漁人碼頭』というマリーナーがあるが、そこに発着する観光客目当てのボートや、ウェットスーツを干してあるダイビング用の船舶の色や形は様々である。
しかし漁船はすべて同じ塗色なのである。
台湾のほかの漁港でもそうなのであろうか。
LCさんが写真を送ってくれた。
4月8日の本欄で淡水郵便局の写真を取り上げ、「傍に小川があり筋向かいに床屋があった」と父のメモがあることを載せたら、1975年にLCさんが渡米後初めて帰台したときに撮った写真を探し出してくれたのである。
赤煉瓦の理髪店の正面壁面の縁取りのなかにに右から「號尾滬」とあり、看板には赤い字で同じく號尾滬、その下に黒い字で廳髪理と書かれている。
郵便局の前から撮影されたもので、理髪店の手前には小さな橋の欄干も写っている。
右に子供が遊んでいるあたりから小路に入ると龍目井の宿舎である。
写真はタイムマシンであると思う。
大戦末期になると淡水にも実戦部隊が移動してきた。
フィリピン方面を転戦していた第634海軍航空隊は水上偵察機の航空隊に改編され(第一航空艦隊)、キャビテ湾カナカオ基地から高雄南部の東港に引き上げてきた。
東港は戦前から飛行艇や水上機の基地であった。
そして1945(昭和20)年3月中旬に淡水基地に移動してきた。
水上偵察機24機(常用18機、補用6機)を擁し、1月末の時点で司令、飛行隊長、搭乗員、地上員など250名の部隊であったので淡水基地だけでは狭く、士林にも基地が設けられたという。
3月27日には本隊を淡水基地に残し、補充および錬成は福岡県玄海基地に置いていたようである。
3月29日には、2次にわたって沖縄周辺の敵艦船に攻撃をかけている。
この日 戦艦1、巡洋艦1、駆逐艦7を発見し攻撃をかけた。
一番機(操縦:宮本平次郎大尉、偵察:中島 宏 上飛曹)は戦艦1隻に60キロ爆弾を2発命中させている。
宮本大尉機は3月31日、4月4日、5日、7日、20日、28日、30日、5月20日、23日にも一番機として出撃している。
同隊は奄美大島の古仁屋基地を経て、6月11日に鹿児島の桜島基地に移動しているが、6月26日の沖縄周辺敵艦船攻撃に出撃した宮本大尉は撃墜され戦死した。
海兵71期であった(偵察第301飛行隊)。
大きな双浮舟をつけた水上偵察機が爆弾を搭載して敵艦船に爆撃を仕掛けるなど一般的に考えられることではないので概要を述べる。
この水上偵察機「瑞雲」(E16A)は14試特殊水上偵察機として、愛知航空機に1社特命で試作指示が出され、開発された。
1940(昭和15)年2月7日、海軍航空本部から愛知に対し「艦載に適し、急降下爆撃の実施容易なる、高性能(速力259kt<463km/h>)の水上爆撃機」の要望があり、愛知でA10の名の下に調査研究が開始された。
開発・試験・審査の上、1943(昭和18)年8月に「瑞雲11型」として制式採用となった。
愛知航空機で197機、日本飛行機で59機が生産された。
航空戦艦(戦艦の後甲板に飛行甲板を設けたもの)伊勢・日向や、横須賀・大津などの航空隊にも配備されていた。
乗務員は操縦と偵察の2名で、武装は20mm固定機関砲、13mm旋回銃、爆弾は250kg×1、または60kg×2であった。
淡水小学校の学童が北投の善光寺に疎開したのは1945(昭和20)年5月のことであるが、私はこの水上爆撃機とも言われた高速水上偵察機が配備されていたことは今日まで知らなかった。
戦史は「旧軍戦史雑想ノート(http://pico32.web.fc2.com/)に拠った。
紅毛城の前の坂を上って行くと、真理大學の理學堂大書院、淡江高等中學、淡水国小などの並ぶ真理街の通りに出る。
その少し手前で右に曲がった通りである。
歩道のように見えるがカーブの向こうからバイクが来ることがあり、自動車も通る。
清末期の淡水関税務司の官邸であった小白宮もこの先にある。
登下校時には生徒が多いが、それ以外は静かで眺めの良い通りである。
グーグルマップのストリート・ビューでも見ることが出来るので撮影車も通ったのであろう。
淡水車站から区公所(旧鎮公所)を経て老街を歩いて行くと、商店街の建物が途切れて紅楼がちょっと見える(上の写真の左上)。
その下まで丘が迫ってきて建物を建てる余地がないのである。
そこに数十メートルの壁が建てられており、100枚を超す絵画が描かれている。
淡水の風景もあれば、静物も人物も、書もある。
やはり淡水河や観音山を描いた絵が多いが、それだけでは単調になる。
いろいろあるから壁面美術展である。
戦前、公会堂のあったところは淡水区の藝文中心となり図書館がある。
そこから河岸へと下りる道は当時そのままに残っている。
その図書館から河岸を撮ったものである。
芝生の公園になっていて榕樹も木陰をなしている。
淡水の観光案内図などには「観潮藝術廣場」として紹介されている。
河岸に喫茶店もある。
明治時代に建てられた大きな木造の郵便局の跡地であろうか。
河岸沿いには太古洋行の倉庫も建っていた。
淡水の街からちょっと河口に寄った、油車口である。
写っているバスは淡水の古蹟めぐりの観光バスである。
戦前はこの辺りの石造の鳥居と大きな一対の石灯籠が建っていた。
淡水神社の参道入り口であった。
有名な台湾ゴルフクラブや滬尾旧砲台への道と並行して石灯籠を並べた参道が作られていた。
戦後、淡水神社は台北県の忠烈祠となり、鳥居も姿を変えていたがいまはそれも撤去された。
路面が黄色の縞模様で塗り分けられているが、手前が滬尾旧砲台やゴルフクラブに行く道で奥を右手に行くと忠烈祠に行く。
その手前に臺北縣立淡水古蹟博物館の事務所がある。
2009年に、その近くに福井県から移築された日本家屋「一滴水記念館」が再構築された。
そして、今年淡水和平記念公園が出来上がったそうだ。
是非訪れてみたいものである。
淡水街の公会堂のあったところに淡水鎮立図書館が建っている。
当時は河下から上ってきた道が公会堂の前を迂回していたが、現在は都市計画で道路が直線化され中山路と呼ばれている。
建物は建て替わっているが、右手前から下る道は当時のままである。
この道を下ると馬偕博士の旧居に出る。
右手遠くに長老派の礼拝堂が見える。
河下側から見た中正路と中山路の分岐である。
右側の道を行くと、かつて小公園と呼ばれたロータリーから老街を通って淡水車站に至る。
老街といっても、今は道路も拡幅されて随分近代化されている。
それに観光用に環河道路が整備され、観光に来た歩行者はそちらを通るので、以前ほど人とバイクが触れ合うような混雑は解消された。
正面の上り坂を登ったところが淡水鎮立図書館である。
戦前の公会堂と同じように淡水の文化中心である。
歩行者用の陸橋が見えるが、あの陸橋を渡った山手には旧街長の官舎だった日本家屋がまだ残っている。
その先に淡水小学校、淡水女子公学校があった。
いまは淡江中學に隣接し、淡水文化国小となっている。
手前の分岐点の建物は、地図でみると農田水利会と書いてあった。
この写真は十数年前に撮ったもので、いまは交通量も大幅に増加している。
このような道路の合流点では自動車の警笛がうるさいだろうと思うが、台湾では接触するような状態でも滅多に警笛を鳴らさない。
不思議に思って運転している人に聞いたことがある。
そうすると当たり前のように「お互い様だから」と答えてくれた。
1923年、沙崙に淡水街営の海水浴場「和樂園」が作られた。
駅から3.3キロメートルの海水浴場は6月から9月まで営業しており、淡水線の鉄道も列車を増発したり往復割引切符、駅から海水浴場までのバスが運行されていたという。
広島市営アパートに住んでいた頃、台湾で温泉旅館を経営していたという老婦人がいた。その人の孫娘が、当時未就学であった娘をよく可愛がってくれていた。
その婦人の話では、温泉場が暇な夏には海水浴場に逗留し、逆に海水浴場を営業していない冬には「和樂園」の経営を委ねられていた浅野タツさんがその温泉旅館に泊まっていたと言うのである。
もっと話しを聞かせて貰えばよかったと思っている。
その沙崙の海水浴場も1934年に台湾軍の防空演習などの軍事演習が行われ、以降毎月のように砲兵や機関銃隊、爆撃などの演習が行われるようになり、油車口から交通管制が敷かれたという。
遠浅の良い海水浴場であったが、戦後すっかり荒廃していたようである。
1998年から多機能デモ漁港に選定され、歩行木桟道、跨港橋、レストラン、土産物屋、デイクルーズなどが行われるようになった。
淡水の環河道路の乗り場との渡船も頻繁に運航されている。
跨港橋上から河上を眺めた写真である。
右が観音山、左が大屯山で正面遠景が台北である。
4月22日のこの欄で、母の写った淡水小学校の記念写真を載せた。
そうしたら、すぐカリフォルニアのLCさんからメールが届いた。
母と同じ年生まれのLCさんのお姉さんが写っている可能性があるというのである。
94歳の誕生日を迎えたお姉さんは、いまも淡水に住んでおられるという。
それから十数日過ぎた今朝、メールが来た。
その娘さんたちがLCさんのお姉さんを確認したという話である。
上の写真は元の写真を部分拡大したものであるが右下(セーラー襟)がLCさんのお姉さんで、左上(白い衣服)が母である。
この写真が撮影されて80年以上の年月が経過している。
まだ、祖母が淡水街の嘱託として「公会堂の小母さん」になる前のことである。
引き揚げのとき、アルバムから剥がしてよく持って帰ってくれたものと感謝している。
こんなとき、このブログを作ってよかったと思う。
紅毛城前の信号を河岸側に渡って環河道路を歩くと程なくテラスのあるレストランがある。
「淡水小鎮」である。
暑いときはテラスのテーブルも良いものである。
メニューも気に入って何度か此処で食事をした。
河岸側は眺めも良い。
入り口は中正路に面している。
建物の横に外階段が付いており、それを上がると見晴らしの良いことで有名な「海湾珈琲館」である。
紅毛城の信号からちょっと河下にレストラン「榕園」がある。
河岸には喫茶店や小物を売っている店があるが、そこから外れたところで水面上にテラスが張り出している。
2003年の大晦日に、そこで食事をしたことがある。
大晦日なのに屋外で食事をして寒くないのである。
台湾はいいと思った。
「雅帝」は新民街にある淡水では有名な高級レストランである。
この店のウェブページによるとクラシックエレガンスロイヤルインペリアルレストランだそうである。
場所は淡水国小の近くから始まり、淡江高等中學の裏を通ってゴルフ場の裏の山側を行く新民街にある。
2010年9月に淡水国小を訪問したときに林元紅校長以下10人以上で円卓を囲み、大変な歓待を受けた。
皆さん一人一人にお礼のご挨拶を出来なかったことを申し訳なく思っている。
淡水鎮立図書館からマッカイ博士が最初に居を構えた馬偕街20番に降りて行く坂道の壁には様々な壁画が描かれている。
左端は淡水河に掛かった関渡大橋、次の絵はシオマネキらしい。その次は理学堂大書院であろう。
どれも明るく良く描けた絵であるが子供の作品に見える。
小学生の入賞作品を看板屋さんがここに描き移したものであろうか?
見ながら下って行くと階段の脇に大きな画を見つけた。
「淡水名勝要覧圖」と書いてある。
MRTの淡水車站も、紅毛城も漁人碼頭も描かれている。
以前、淡水を訪れたときに撮った写真であるが今日、見直していて気がついた。
以前にも紹介した、淡水の古い写真を載せているページ(http://taipics.com/taipei_danshui.php)に載っていた写真である。
小公園で人力車が2〜3台、客待ちしている。
煉瓦建ての礼拝堂の方から中学生が歩いてくる。
右の商店の前に女の子が2人立っている。
その商店の屋号の一部が見える。
「明石商店」か「明石商会」であろう。
この写真も何度か見ているのに気付かなかった。
皐月晴れと言うが、5月になって雨が殆ど降っていない。
四国ではダムの貯水率が減ってきたそうである。
ここ太田川放水路も6月になると鮎漁が解禁になる。
太田川漁業協同組合があって、一日/1シーズン/恒常などの漁業権が設定してあるらしい。
この絵は父が描いたものである。
鮎舟は、同じ鮎を漁る川舟であるが鵜飼い舟とは違う。小さくて細い。
鵜飼い舟のように篝火で鮎をおびき寄せ、鵜を操って飲み込ませるのではなく、鮎の居そうなポイントに泊めて囮の鮎を泳がせて、縄張りを守ろうと攻撃を仕掛けてくる鮎を空針で引っかけるのである。
従って動かすことも、まして回頭などの操船はしない。そのため細くスマートなのである。
父は淡水で教員をしている頃、投網をやっていた。
週末には板の間で網を繕っていた。
戦後、父の教え子であった人から淡水の写真を送って貰っている。
その中の一枚である。
裏には「市場の前に有る媽祖廟」とある。
グーグルで淡水市街を捜してみると「福佑宮」というのが見つかった。
「淡水福佑宮:1782年に建設が始まった天上聖母を祀る廟。
福佑宮の前は埠頭があり海の守護神である天上聖母(媽祖)が祀られることになった。
天上聖母は福建省の実在の女性、媽祖が神格化されたものと言われている。
家族を海難事故から守ったため、航海の安全を守る神様。」
と解説が載っていた。
この写真の右手向こうに戦前、郵便局があった。
その裏手は河岸に面していた。
何時だったか、河面を発着していた零式水上観測機が着水に失敗して沈んだことがある。
裸になった水兵がロープを掛けてスロープに引き上げていたのを見に行った覚えがある。
朧気な記憶ながらこの辺りではなかったろうか。
いまは広く環河道路として整備され、近くには木陰でお茶を楽しむことも出来る。
カリフォルニアのLCさんが戦前建っていた公会堂の位置を特定してくれた。
1945年に米軍が撮影した航空写真と、現在グーグルが提供している地図と同スケールの航空写真を比較して正確な位置を割り出したのである。
しかし、2つの写真を重ね合わせるには角度を回転させ、縮尺を調整しなければならない。
LCさんがそのとき縮尺の基準にしたのは、長老派淡水教会の屋根の長さが21.5メートルであることであった。
そして、拡大/縮尺の基点に選んだのが、公会堂から馬偕博士旧宅に曲がる坂道に降りる階段の踊り場であった(このブログで5月15日に載せた「淡水名勝要覧圖」の描かれている階段)。
そうして両航空写真を重ね合わせて、洋館の幅を13.5メートル、長さを16.13メートル、面積を220平方メートルであることを割り出した。
さすがシビルエンジニアである。
この洋館はLCさんも書いているように学校の学芸会や、野球などスポーツの祝勝記念会や、街営の講習会などに多用されたようでいくつかの写真が残っている。
それだけでなく、結婚披露宴にも多く用いられた。
私の両親も台湾神社で挙式したあと、洋館で披露宴を行っているし、ボストンの鄭先生の親族の結婚記念写真も、横浜のKGさんのご両親の結婚写真も見せて貰った。
日本式の宴会は本館1階の畳敷きの広間で、中華料理の宴会は洋館で行われており板前さんや司厨が何人も居たという。
本館の広縁からの眺めは素晴らしかった。本館階下には撞球台もあったと言うが私は覚えていない。
公会堂は我々、淡水生まれにとっては懐かしい場所なのである。
いまは淡水の幹線道路、中山路になっているが公会堂本館の裏には木立があり、洋館の横には稲荷神社があった(下図参照)。
LCさんのおかげで当時を偲ぶことが出来るようになった。
有り難いことである。
この写真には「第九期台北州産業組合講習会修了記念(昭和五年三月一七日・於淡水公会堂)」とある。
この写真も台湾の古い写真を載せているページ(http://taipics.com/taipei_danshui.php)で見かけたものである。
淡水公会堂は雑誌や新聞の閲覧、食事や喫茶、囲碁・将棋、盆栽や絵画の展示会などの場所を提供していたと言われる。
1928(昭和3)年秋に竣工して公私の催しに活用され、和式/中華などの宴会や会食も必要とされ、常任の管理人を置くことになったのであろう。
公会堂と同じく街営の海水浴場「和樂園」で管理人、浅野タツの手伝いをしていた祖母、原田ユクが淡水街嘱託となって公会堂の管理人になったのは同年4月であったという。
上の写真では、公会堂はまだ出来たばかりのように低い柵で囲まれただけであるが、下の写真では生け垣が繁り、立木も何本か見える。
しかし私の幼い頃の記憶で、この生け垣はおぼろげである。
戦前、淡水神社のあったところに臺北縣忠烈祠がある。
今年、この近くに淡水世界平和公園(DWPP)がオープンした。
ボストンの博士たちが尽力して建設されたものである。
この平和な街も史上何度か戰争に巻き込まれ、軍人だけでなく何の関連もない民間人が此処で亡くなり、あるいは前線に送られて戦没した。
人間は実に愚かなものである。
かつて、戦は職業軍人や彼らに雇われた兵士が行っていた。
機関銃や爆弾が開発され、戦場に持ち込まれてから何の罪もない民間人も戦争に巻き込まれるようになった。
合衆国の南北戦争や、第一次世界大戦、スペインの内乱など何度も戦争の悲惨さを繰り返してもそれに懲りず、第二次世界大戦を引き起こしてしまった。
未だに核実験を止めない国も、毎年二桁で軍事予算を増大させている国もある。
もういい加減、その悲惨さ、虚しさ、亡くなった人の無念さ、残されたものの悲しみを学ばねばならない。
それが戦争を体験したものの義務である。
淡水河を見下ろし観音山を対岸に望む淡水の平和公園には味方も敵も、軍人も民間人も祀られているという。
機会があれば是非参拝したいと思う。
公会堂の洋館は煉瓦建てであるが、本館は木造建築だと思っていた。
ところが、戦後撮影された焼失後の写真を見ていて気がついた。
本館の二階部分は木造であるが、一階は煉瓦造りの様である。
上の写真の左部分を拡大してみる。
本館の煉瓦造りの一階部分の上に形鋼の梁が載っているのが判る。
おそらく一階は土間になっていて、新聞や雑誌を見たりしていたのであろう。
撞球台も置いてあったと言うからそうに違いない。
形鋼の梁の上に木造の二階部分を造ったのであろう。
そう思って眺めるとそうかも知れないと思える。
片倉佳史氏は台湾在住の執筆家である。
「台湾風景印−台湾・駅スタンプと風景印の旅」、「台湾に生きている『日本』」などはいつも座っていて手の届くところにある。
淡水に関するもので言えば「台湾風景印」には駅スタンプとして「圓山」、「士林」、「北投」、「新北投(2)」、「淡水」のほかに淡水の郵政印も載っている。
新書「台湾に生きている日本」では食肉解体処理場のあったところに今も残っている「畜魂碑」が写真入りで紹介されている。
場所は淡水鎮水源街一段三一号であるという。MRT淡水駅舎からほど近く、淡水国小の東側である。
LCさんが言っていたとおりのところである。
畜魂碑は自然石で、台座まで含めると2メートルを超える大きな碑である。
片倉氏は地理、歴史、原住民文化などのほか鉄道にも造詣が深い。
ウェブでは「台湾特捜百貨店(http://katakura.net/)」で、台湾の現状や懐かしい写真を紹介してくれているのでいつも見ている。
写真は昭和14(1939)年3月の淡水公学校卒業記念写真帖に載っていたものである。
朝礼のときで、教員は制服制帽で両側から挙手で国旗を見上げている。
校庭の一角に生け垣をめぐらせた家が見える。
おそらく校長官舎であろう。
当時は郡守も銀行の支店長も皆その担当施設の官舎などに家族で住んでいた。
私が公会堂に居たのは幼いときのことで記憶と言うほど確かなものではない。
この写真を見たときに、まわりにめぐらされている生け垣のことは思い浮かばなかった。
念頭にあったのはこの縁石のことで、これはよく覚えていた。
他にもこれを覚えている人が居て、絵葉書にもやや誇張されて描かれている。
しかし、公会堂の小母さんと言われていた祖母に抱かれている写真にはパパイヤの根元に柘植のような低い生け垣が写っている。
縁石はこの外にあったに違いない。
写真の一齣から何かが判ってくることもある。
現在の中山路である。
左の高層ビルの向こう側が淡水鎮立図書館で、その図書館から中山路を跨いでいる歩道橋を渡ったところに旧淡水街長宅がある。
グーグルで見ると長年放置されて伸び放題になっていた榕樹は切り倒され、構内は見違えるように明るくなっている。
中山路のこの辺りは戦後整備拡幅された新しい路であるが、右に分岐する緩やかな道は当時のままで懐かしい。
写真で見える範囲にはビルが建っているが、緩やかな上り道を行くと当時の面影を残している。
小さな飲食店や売店のあたりから街長宅の方に下る道がある。
その先に文化国小である。
この写真では読めないが分岐に立っている標識は、上から「真理大學」、「淡水国中」、「淡江高中」、「文化国小」を示す矢印がある。
淡水街公会堂の近くに淡水街長の官舎があった。
私達が淡水に居たころの街長は中原 薫氏であった。
しかし、淡水鎮(現:新北市淡水区)の観光ガイドマップには「淡水街長多田栄吉故居」として掲載されている。
上掲の写真は以前訪ねたときに撮影したものであるが、まわりには草が生え、放置されていた榕樹(ガジュマル)が枝を張り気根を下げてお化け屋敷のようであった。
いまは榕樹もすっかり撤去され、当時のままの日本家屋が残っている。
戦後、淡水老街のバイパスとして中山路が整備されたので淡水区の文化センター(公会堂跡)やキリスト教会へは陸橋を渡ることになる。
こちらは中正路の台湾銀行淡水支店長の旧宅である。
訪れるたびにまわりが整地されてすっかり戦前の面影はなくなった。
当時の支店長は伊藤勝太郎氏であった。
これは数年前、河岸側から撮影したものである。
日本家屋も植木もそのまま残っているが、空いた地面はどんどん舗装されていた。
街長旧宅はガイドブックに載っており、何かに活用されている様であるが支店長旧宅の方はそのうちに取り壊されるような気がする。
LCさんから送って貰った淡水の陳月里女史の「淡水月光」(1991)である。
1988年に観音山をスケッチしていた武蔵野美術大講師、建築家の鈴木喜一氏と出逢ったとき、67歳だったという。
鈴木氏のエッセイによると三民街の小公園に面した建物の2階に住み、1階に娘さんと民芸店を開いていたそうだ。
木下静涯画伯はインド旅行の帰途、病気になった友人に付き添って台湾に滞在し、この地が気に入って淡水に居を構え家族を呼び寄せて終戦で引き揚げるまでこの地の名士であった。
画伯は特に雨後の淡水がお好きであったと思うが、それほど淡水という処は良いところである。
LCさんも夜の淡水河に浮かぶ漁船を撮影して国際フォトサロンに入賞している。
淡水河と観音山は晴れた日も雨の日も、朝も昼も薄暮も実に良い眺めである。
陳月里女史の淡水夜景をもう一枚。
これは女史の住んでいる三民街(龍目井)の小公園一角の夜景である。
路地の向こうにキリスト教長老派の教会が描かれている。
彼女の描く夜景は生き生きとしてそこに住んでいる人が感じられる。
客で賑わっている店のあるところには戦前、鄭子昌医師の「興亜医院」のあったところである。