「1909年4月に完工した淡水公会堂は、主に一般市民に図書閲覧、食事と囲碁将棋、交流と健康などの芸術文化活動の場所を提供していた。淡水税関の「五十会」と「商船会社倶楽部」が共同で建設した。この建物は淡水教会西側の坂道を登った丘の斜面に位置し、東側は淡水稲荷神社(現在の淡水鎮立図書館所在地)に接し、総立て坪70坪あまりで、当時の淡水では最も規模の大きな文化施設であった。日本人、台湾人に関わりなく、みなここで各種の活動に参加できる「淡水公会堂規則」に拠っていた。しかし、惜しいことに戦後、火災で失われてしまった。」
(日本年特展:日本特別展覧会、拝啓 日本様 −淡水より−)
淡水古蹟博物館四周年慶特別展示(2009年12月23日)
淡水の歴史を扱っている「漁人碼頭的戰爭(http://danshuihistory.blogspot.com)」では税関の職員やその他の官吏、台湾銀行や日本商社などにより「淡水倶楽部」が作られ、淡水街営の海水浴場や公会堂を建設したと述べられているが、1909年公会堂竣工には疑問を呈しており、「1918年:興建淡水公会堂(即今淡水文化大楼所在地)、1928年8月1日:淡水公会堂落成」としている。
当時としては大きな建造物だったのであろうが工期10年というのは長すぎると思っていた。
古い地図がある。それによれば淡水字砲台埔二八に淡水稲荷社(1906年11月15日鎮座)と淡水社が建っており、隣接地は「公会堂地塊」とのみ記されている。
当時は更地であったと思われる。
このたびKGさんから複写を送って貰った、周明徳氏の「続・夕日無限好」(2000年著)によれば、淡水街民が昭和天皇の即位大典(1928年11月10日)記念行事として寄付金を募って公会堂を建てた(同年8月16日竣工)という。この寄付金の大半は淡水駅の近くに施合発製材工場を持っていた施坤山氏が提供したという。
ちなみに公会堂の本館も洋館も建設業を営んでいたLCさんのお父さんが請け負って建設された。
いずれにしても原田ユクが淡水街の嘱託になり、公会堂の管理を委ねられたのが1930年4月であった。