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2011年04月 アーカイブ

2011年04月01日

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93式中間練習機

93churen_1.jpg

先月11日のこの欄で「オレンジ色の複葉練習機」という項を載せた。

Yahooブログに「老兵の繰り言」というページがある(http://blogs.yahoo.co.jp/senri0220)。
冒頭に『「特攻隊」の生き残りが後世に語り継ぐ鎮魂の記録です。(後略)』と記された元特攻隊員のブログである。
本日掲載された「台湾の思い出」に、その93式中間練習機による特別攻撃が行われ、戦果を挙げたことを知って驚いた。

写真はその93式中間練習機である。
特攻に出撃したときは前線用の濃緑色に塗り直されていたのであろうか?

以下は本日掲載された全文の転載である。

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     台湾の思い出          川口 武(福岡県出身)

虎尾空は昭和十九年五月十五日、台南州に開隊した陸上機操縦の教育部隊です。
予備生徒の一期生・飛練三十九期・飛練四十期が在隊していました。 台中派遣隊
は永康と後龍基地に分かれ、飛練三十八期と飛練三十九期それに飛練四十一期
(各期とも甲飛十三期生)が在隊していました。

昭和二十年二月十五日、操縦訓練の中止にともなって、虎尾空は解隊されました。
内地への引き揚げに際して、 練習生は無事帰還できたのですが、 「南京丸」に
乗船した約五十名の士官 (ほとんど十三期予備学生) と教員約二十名、 それに
われわれの衣嚢などの荷物は、基隆を出港した三月十七日夜、アメリカ潜水艦に
より撃沈されました。

護衛の海防艦に便乗していた、同期生の小深田君と前田君の話によれば、生存
者は殆どいなかったそうです。

私たち教員二十名は、新竹基地からダグラスに便乗して内地に帰りました。他の
十五名の教員は台北基地から帰る予定でした。ところが、迎えに来たダグラスが
給油を終了した途端、 グラマンにやられ飛べなくなり、 再び虎尾空に帰ったの
です。この中に、柴田君や福元君がいました。

彼らは残務整理に残っていた者と合流して台南空へ行きました。そこで、「忠誠隊」
に編入されて「特攻作戦」に参加して、大空に散華されたのです。その後、虎尾空
は解隊され、私たちが訓練に使っていた九三中練による、「特攻隊」が編成されま
した。

中でも特筆すべきは、 七月二十九日に出撃した、 「第三龍虎隊」 の活躍です。
この隊は赤トンボと呼ばれた鈍足の練習機にも拘わらず、アメリカ海軍の駆逐艦
キャラガンを撃沈したのです。そのうえ、ブリチェット、キャッシンヤング、ボレース
・バイにも損害を与えました。これはアメリカ側の記録にも残されています。

十二空はサイゴン郊外のツドウモ基地にあり、 上海空の飛練を卒業した多数の
同期生が配属されました。その後、台湾に移り「神風特別攻撃隊振天隊」が編成
され、宜蘭基地や新竹基地から沖縄周辺へ出撃し、 大空に散華されました。

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2011年04月02日

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淡水海軍墓地(共同墓地)

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一昨日、ボストンの博士から 淡水の海軍墓地に祀られていた大叔父(祖母 原田ユクの弟)のことについて何か判ることがあれば知らせて欲しいと連絡があった。

淡水世界和平公園(DWPP)の開園に向けて調べてくれている。

祖母の生前に教えて貰っていなかったので、明治28年9月5日に亡くなって海軍墓地に祀られた9名の海軍軍人の一人ではないかと訊かれても判らなかったのである。
9名の内、一人名前が判らないという。

当時、淡水で一緒の家族として生活していた祖母の姪である下松のMさんに訊こうと思って、先ほど電話を掛けた。

聞いてみると傳人大叔父は淡水海水浴場の経営を委ねられていた伯母、浅野タツの養子になっていたという。
おそらく現地で亡くなって淡水の共同墓地に埋葬されたのであろう。

写真は戦後、父が渡台したときに撮った海軍墓地のあった場所である。
ガラスに何か映っているので移動中の車内から撮影したものであろう。


2011年04月03日

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父の龍目井再訪

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これは父が龍目井を再訪したときにポラロイドカメラで撮影された写真である。

父は1985(昭和60)年に書道教室の仲間と、1991(平成3)年に淡水会が現地で行われたときと、2回渡台している。

淡水国民小学(旧淡水公学校)の門柱のわきで当時の教え子たちと撮った写真と同じような白い上着を着ているので、そのときに龍目井を訪れたのであろう。

淡水会のときは日本から行ったのは25名で、現地の人達は80人くらいで歓迎会をしてくれたという。

日曜日にもかかわらず陳淑女校長も出席して、父が各テーブルに挨拶にまわるとき乾杯を無理強いされないように気を遣ってくれたと聞いた。

昨年は私たちが同地を訪問し、陳女史にご挨拶することが出来た。

2011年04月04日

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建設工事中のMRT淡水車站

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この写真は1995年3月に、引き揚げてから最初に淡水に行ったときのものである。

駅前の道幅は広く整備されているが、相変わらずバイクが多い。

正面の建造物は台北捷運(MRT)の淡水車站である。
外観は出来上がっているように見えるが、淡水線の中山・淡水間がが開通したのが1997年3月28日、台北車站まで接続したのはその年の12月25日であったので淡水車站は建設工事の最終段階であった。

現在の写真と言っても違和感がない。

淡水線は1998年末に中正記念堂まで延長されて全線開通となった。
板橋線は1999年末に西門・龍山寺間が開通し、翌年新埔まで延び、2006年になって全線開通している。
2009年に松山機場(台北国際空港)と接続したのでとても便利になった。


2011年04月05日

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淡水・中山路

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昨日に引き続き、十数年前の淡水街の風景である。

MRT淡水車站からほど近い中山路と思われ、右に「清水街」への矢印が表示されている歩行者用通路で、小さな祠がある。
歩行者用通路とは言っても、バイクが走り回っている。

右に行くと百メートル程度で車站に行き、左にしばらく行って右に曲がると淡水国小に行く。

自分が撮った写真なのに、初めて行ったところで十数年まえのことでもあり勘違いしていた。
LCさんがすぐに気付いて教えてくれた。


2011年04月06日

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父の随想「茜雲」

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父が何冊かのノートに随想を綴っていた。

その中から幾片かを小冊子にしたことがある。
知人に差し上げたりして、手許に一冊だけ残った。

1992(平成4)年、父が満80歳のときであった。

25項目が掲載されており、5行と短いものもあるが『台湾の話』だけは教え子が訪ねて来てくれたときのことを綴った「その1」、淡水で行われた淡水会のことを書いた「その2」、書道の仲間と最初に訪台したときの思い出である「その3」と3部になっている。
父は明治の生まれで、パーソナル・コンピュータやインターネットとは無縁であり、そのころやっとワードプロセッサが普及し始めた頃であった。

悪筆の私はワードプロセッサの恩恵に浴しているが、父はどこかで習ったわけでもないのに、書と水彩画を趣味のようにしていたので、必要のないものであった。
しかし、知人が人材派遣業とパーソナル・コンピュータやワードプロセッサの個人企業を始めたので小冊子にすることを勧めた。

手書きのノートから原稿用紙に書き写し、出来上がったものである。

表紙の色は、印刷製本の担当が標題を見て提案してくれたものである。

2011年04月07日

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水碓子の水源地

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父の手作りのアルバムを取り出してみたら何の変哲もない田舎道の写真が出てきた。

「水碓子の水源地」と注記してある。

いまグーグルの地図で見ると、淡江大学の近くに水源街二段という地名が見える。

この辺りに水源地があったのだろうか?

何か思い出があったに違いない。

そういえば淡水街長宅には、台湾で初めて民家に引かれた水道があったと見た覚えがある。

アルバム表紙の手書きの地図によると、公学校(男子校)から北に行き、興化店へ行く道路から右に分岐して矢印があり、その先に「水碓子(水源地)」と書いてある。

2011年04月08日

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父の書き残してくれたメモ

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3月1日の本欄で「龍目井の我が家」として、航空写真から当時住んでいた宿舎を推定してみた。

スクラップブックに、引き揚げのときに持ち帰ったものや、後で現地から送って貰った写真が貼ってある。

それにメモを残しておいてくれた。

先日の推定が的中していたのかもしれない。

LCさんの父上の掛けた小さな橋の架かった小川や、LCさんやCHMさんが散髪して貰ったにちがいない筋向かいの理髪店のことにも触れてある。

「左端 少しはづれた処から小路があり 入って左2軒目が当時 竜目井の宿舎で 恭子はここで生れた」とあることで確認することが出来た。

ひょっとすると3月1日の赤で囲った家の隣(道路寄り)かもしれない。
裏口で隣接していた安武先生の宿舎が小公園に向いていたと思われるからである。

2011年04月09日

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あゝ淡水公会堂

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父のアルバムで、昨日の写真の上に貼ってある写真である。

文字が小さいので転記してみる。

『向って左が本館、二階広縁の眺めが格別であった。
左端の奥が住居、表は広間で撞球台、右端に小部屋が二つあり、独身の時
そこで食事をした。 奥の住居で紀夫が生れた。
向って右は別棟(洋館) ここで私達の結婚披露宴をした。

話がきまってから お膳の下に卵の特配があったり
バアチャンと街にパーキャーに出かけ 深夜 足音をしのばせて帰り
奥の台所でヤークイチーをした。』

母は 面白くないので寝たふりをしていたと笑っていた。

戸籍謄本には
「臺湾臺北州淡水郡淡水街淡水字新店参拾七番地で出生」とある。

これは塩屋を営んでいた黒川さんの住所で、結婚してその二階を借りていたのである。

2011年04月10日

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淡水公学校々庭

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一昨日、昨日と同じページである。

『左、画面から外れた方向に4列位の本館があった
中央の樹木の下あたりが松田校長宿舎
右端の樹はガジマル 右外れた処に国旗掲揚台 更に右端に角力場
そこから崖下に小径を降りると 山本 保 叔父の宿舎があった』

Tansuikohgakho_2.jpg

この図の右上、グランドの辺りだと思われる。

1896(明治29)年5月21日に滬尾日語傳習所が設立されて以来、滬尾公学校、淡水公学校、淡水東国民学校、淡水国民小学と続いて今年で創設109年目にあたるという。

ちなみに、山本 保 叔父とは原田ユクさんの弟で当時、淡水の役場に勤めていた。


2011年04月11日

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台湾台北州淡水街烽火14

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ここはおそらく引き揚げ前に住んでいた辺りではないかと思う。

ウェブで見つけたこの写真自体は随分古いものである(http://tw.myblog.yahoo.com/tamsuitms/photo)。

その後、道路も広く整備され画面中央にあたる位置には大きな榕樹が影をなしている。

右手前に見える古蹟「紅毛城」の門やそのエントランス、それにそのまわりの斜面が工事中である。

昨年11月13日に、ここで取り上げた写真より少し視角が狭いが、紅毛城入り口付近の盛り土などから見ると、ほぼ同時期のものであろう。

漠然とした記憶によれば手前の瓦屋根の小さな家が建っている辺りか、あるいはもう少し左手であったような気がする。

道に面したブロック塀は撤去されたのか記憶にない。その辺りから敷地の内側に数段の煉瓦積みがあって低い植え込みがあったように覚えている。

戰争末期には家のまえの土地を掘って壕のまねごとのようなことをしていたような気もする。

引き揚げて、佐賀県浜崎の本籍地、岩国を経て原子砂漠の広島市内を転々としてやっと落ち着いた頃に書かれたメモがある。

それによると引き揚げ前の住所は、台湾台北州淡水街烽火14と記入してあった。

2011年04月12日

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スターフルーツ

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古蹟「紅毛城」の構内に、煉瓦造りの旧英国領事館がある。

冬に行くと、入り口から紅毛城に上る途中にスターフルーツが沢山なっているのを見掛ける。

中山路からキリスト教長老派の教会に降りる道の脇にも民家の庭になっていた。

輪切りにしたとき、断面が五芒星型をしているのでスターフルーツと呼ばれるが、現地では楊桃(ヤンタオ)とか五斂子(ゴレンシ)という。

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果物と言うほど甘くなく、サラダに入れたりピクルスにもするそうである。


2011年04月13日

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父の応召(1)

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父は三芝国民学校に転勤して一年余りで応召した。

兵隊に行っていたときのことは訊いたこともないし、父も話さなかった。

亡くなったあとで原稿用紙7枚に「兵隊」と題したメモが残っていた。

引き揚げ後のことも書いてある。

前後二回に分けて挙げてみる。

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私は既に敗戦の色濃い昭和十九年に台湾で召集を受けました。
内地で七、八年 台湾で仝じ位教員でしたのでその時、台湾台北州淡水郡三芝国民学校に居て、三十二才でした。
応召部隊は台南第四部隊(蓬一九七〇二部隊)でした。台湾でも北部と南部では、気温湿度に大きな差があり半襟のぶ厚い単衣でも、色が変わる程ひどい湿度と気温に面食らいました。
淡水街で内地人、本島人の見送りを受けて例の赤襷をかけて、貨物列車で台南に行きました。妻の叔父がついてきて、入隊して軍衣を渡されて、あとの着て居たものを叔父がかたみがわりにもって帰りました。
営庭に「レンム」という特有の樹木に実がすずなりでした。
夕食後、夜間演習に営門を出て街を行進するのにうっそうとした火炎樹が濃緑の中に焔のような真紅の、丁度ねむの花の様な花が印象的でした。
私の所属は部隊本部、暗号班で本部宛の暗号の発信・受信と参謀本部地図の管理で、そのために部隊暗号班長(中尉)と下士官に随分教育を受けました。今でも乱数表などの言葉をきくと懐かしい想いがします。
米軍の反抗が本格的になった時のことで私が入隊すると間もなく、台南部隊は僅かな留守部隊を残して営舎を出て、敵の侵攻にそなえて更に台湾南部の潮州という処の山の麓に仮兵舎を拵えました。いざと言う時は台湾南端で防戦するためでした。草むらから錦蛇が出て、たまげました。
ところが敵は、台湾を素通りして沖縄をつくということで部隊の大半は沖縄救援に輸送船で送られましたが、殆ど生きて帰れなかったでしょう。私は本部に残りました。山の中の仮兵舎でマラリヤに罹り、腎臓結石などもやって仮病舎で幾度か寝ました。
御陰で一等兵から上等兵に進級の時、私だけ残されました。
夜、不寝番の時、遠く台湾北部に残している家族のことを想いました。
訓練中、機関銃の暴発で死んだ友の火葬にも立ち会いました。
時折 山から生蕃が頭と背にタロイモなどをもって部隊に来て物々交換するのです。彼等が一番欲しがって居たものはマラリヤの錠剤キニーネと煙草でした。
時々、敵の編隊爆撃機がごうごうと、しかも低空で頭上をとんで行って高雄、嘉義、屏東を爆撃します。遠く黒煙が濛々と上がるのをよく見ました。山の麓にひそんで居る兵舎など見向きもしません。
一度誤ってその内の1機がガソリンタンクの増槽(これは補助タンク)が兵舎の近くに落ちて大きな音がして私が仕えていた暗号主任の中尉のおじさんが「H、大丈夫か」とかな切り声を出したことがありました。


2011年04月14日

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父の応召(2)

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父のメモの続きである。

敗戦から、引き揚げて広島に住み着くことになった処までが記されている。

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日本の敗戦により昭和二十年九月、部隊は現地で解散になりました。
その前夜、部隊本部の下士官たちがひそかに会って話し合いました。
兵は私一人、将校達はたのむに足らない、吾々だけ どうするかと深夜話し合いました。蕃地に入り込んであく 敵の軍門に降らないと言うもの ジャンク船を使って大陸で活路をひらき生き抜こうなどいろいろありましたが結論が出ぬ内に朝が来て、缶詰など食料品をリュックに一杯と、上等兵の襟章をもらって皆と別れました。
一年半近く兵隊であったのに人を殺さず、身の危険を感ずることも病気以外にありませんでした。
内地から来た人達は復員船で帰りますが私などは台湾に家族が居て それをつれて帰らなければならなかったのでいろいろな手続き、様々なデマの中で、それでも毎日、家族が食べるだけのことはしなければなりません。当時、留守宅に家内と家内の母、長男(五才)長女(三才)が居りました。
家族の処に帰って、頼まれて船会社の倉庫番、内地人・本島人を問わず荷物運びの車ひき等やりました。
21年3月やっと台北に集結ということになりました。ありがたいことに永く居住していた淡水の街を出るときは、駅に本島人の官民が見送って呉れました。台湾総督府の一階の広間の土間に馬小屋みたいに藁を敷いて寝るのです。二、三日は手続、船便、検査等で過ごしました。その間に家内が病気になり、出発の日は家内を荷車にのせて台北駅に向かいました。所持金は一人宛五千円、中には枕の中などに現金や貴金属を入れて、それが乗船前の検査で見つかって、その集団が出航の足留めをくわされたとか流言がとびました。
やっと基隆移動したが、ここで又検査、船便待ちです。
やっと乗船の運びになったが、その船が小さな海防艦で、どこもここもすし詰めで、大浪にがぶられて、それでこの船がどこにつくかも知らされていません。船の中で二晩は吐く、泣く。哀れなもので私は船に強いので、幾回となく皆の汚物をバケツで上甲板に運びました。
皆呆けた様な姿で、ついたのは鹿児島・天保山桟橋でした。三月二十三日、寒い朝ホームで夏蜜かんを売っていたが、ひどく高いとかで内地の風当たりのきびしさを感じたことでした。とりあえず私の生家に兄達が居る処に身を寄せたのですが、いくら身内でも四人もつれて、食糧のない住宅のない内地では落ち着けません。
内地も衣食住すべて乏しい時で、外地に出て居た者が続々引揚げて来るので、すべてに難儀で片身のせまい思ひをしました。
居候で食うために森林伐採の監督、玩具商の店員、そして近郊のお祭りの時、道端に座って出店もやりました。
郷里で教員に戻れと言う兄達の言葉を振り切って、当時広島に居た家内の叔父からのさそいで半年余りで原爆直後の広島に来ました。
私と家内は、仕方がないけれどけれども家内の母と子供二人にはみじめな思いをさせたくありませんでした。始めに叔父の家の岩国にこしかけ、広島市水道課の雇で焼け跡に方々吹き出している水道管をとめて処置し、鉛管を埋設する仕事で、夜昼ツル、スコ(註:ツルハシ、スコップ)をもちました。栄養不良と過労がたたって肺結核で中保健所、本川の記念病院に厄介になりました。
後に市の水道局の上下水道の工事をやる建設業に三十年勤めました。
引揚以来住居は、先ず兄の処、岩国の叔父のところ、皆実町、西蟹屋、中島、基町、牛田、川内と転々としました。
中島は居候で、基町で市で最初の木造白壁の市営住宅に入りました。
引揚の三十四才から今日来た昔を時折偲びます。
今にして、台湾に行ったことも、兵隊も、建設業も懐かしい良い思い出になったことを心から喜んでいる昨今です。


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祖母が生前、「私の一生を書いたら面白いものになる」と笑っていた。

戦後、両親や祖母は苦労して育ててくれたものと感謝している。

2011年04月15日

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紅毛城近くの榕樹(ガジュマル)

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先日(4月11日)この欄に載せた写真と同じ地点を撮影していたので並べて較べてみる。

写真の正面河岸に小さな堀込み、その左に歩道があり、低い塀が築かれている。

河岸側には植えられたばかりの植え込みが見える。

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この写真は引き揚げて以来49年ぶりに(1995年)現地に行ったときのものである。

少し画角が異なるが、榕樹が煉瓦塀を越えて、良い木陰を作っている。

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これは数年前に行ったときのに河岸側から撮ったもので10年のあいだに榕樹が大きくなっていることが判る。

この樹を沖縄ではガジュマルと呼んで、大きな樹にはキジムナーという精霊が宿っていると言い伝えられている。

2011年04月16日

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旧水上機基地の引き上げ斜面

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この写真は淡水車站そばの河岸公園から河上側を撮ったものである。

手前に、淡水古蹟博物館発行の淡水トラベルマップに載っている英国貿易商の建てた煉瓦造りの倉庫が見える。

その向こうの木立の手前に砂浜のようなものが見える。

よく判らないので少し拡大してみた。

ramp_1a.jpg

コンクリートで出来た斜面のようである。

上記トラベルマップにも最初に紹介されている「淡水水上機場」らしい。

戦前、ここに天候観測などを行う零式水上観測機が数機配備されていた。

長い間放置されていたようであるが、ボストンの博士によると最近再開発のため埋め立て工事が進んでいるという。

2011年04月17日

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三芝国小創設百周年記念誌

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昨2010(民国99)年に三芝国民小学は創設百周年を迎えた。

その記念誌の巻末に創設以来の教職員名簿(赴任・離任月日付)が載っている。
20ページにわたってカラーで掲載されている教職員数は638名(含在籍89名)である。校長はこの中に含まれていない。

終戦後、淡水国民小学の初代校長になった洪炳南(1914/3/31〜1916/5/51)、廣川研一(1943/3/31〜1945/12/31)の名も見える。

父、研一の履歴明細(抄本)によれば

「昭和18(1943)年3月25日、三芝国民学校訓導ヲ命ズ
          同年同月31日、給月俸六拾七円
(中略)
 昭和19(1944)年5月 5日、補 三芝国民学校教頭
(中略)
 昭和19(1944)年6月12日、応召
(後略)」

とあるので、事務手続き上そうなっていたのかもしれない。

それにしても三芝国小の校史文物館に保存されている資料には敬服した。

2011年04月18日

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ワックスアップル(蓮霧)

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台湾のほぼ中央を北回帰線が通っている。

縦長なので北部と南部ではびっくりするほど気候が違うようだ。

父は1944年に応召し、台南の部隊に入隊したが湿度と気温が高くて驚いたらしい。

「営庭にレンムという特有の樹木に実がすずなりでした。」
と書いている。

レンムというのは蓮霧のことで、別名ワックスアップルという。

写真は航空会社の機内誌に載っていた屏東の蓮霧プランテーションである。


2011年04月19日

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デイゴの咲く頃

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やっと、少し春らしくなってきた。

この時期に台湾に行くと真紅のデイゴが咲いているのを見掛ける。

沖縄にも小笠原にも生えている。
(上の絵葉書は「飛鳥」のものであるが、前景にデイゴとタコノキが見える)

毎年必ず咲くとは限らないようであるが、最近ヒメコバチという昆虫により台湾でも沖縄でもデイゴの樹が枯れる被害が出ているようである。

デイゴは台北の中心部で見掛けたことがあるが、淡水では見た記憶がない。

広島市内でも、百メーター道路の緑地帯でアメリカデイゴが花をつけているのを見たことがある。


2011年04月20日

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淡水河の中洲

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淡水は19世紀末に台湾随一の貿易港で、全台湾貿易総額のの4分の3を占めていたと言われる。
しかし淡水河の堆積のため河底が浅くなり、浚渫船で浚えたりしていたが大きな中洲が出来ていた。

小さい頃、で中洲に渡ったことがある。
長さ7〜800メートル、幅2〜300メートル程度はあったのではなかろうか?

大型船の入港に差し支えるようになり、開設された日本郵船や大阪商船の福州や香港への航路も廃止されてしまった。

ときおり川西の大型飛行艇が飛来していたが、着水や離水の前には遊漁船などが滑走水面に入らないように警戒艇が走り回っていたのだろう。

戦後、川の流れが変わったせいか中洲はなくなっていたが、干潮時には水面上に現れることがある。

2011年04月21日

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淡水・小公園

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この写真の下には父の字で「ふところに蜜柑、安武さん宅前小公園」と説明が振ってある。

写真の裏には「断髪の前」とある。

父が断髪したのは結婚の後で、私が生まれる前であった。

何処で撮ったものかよく判らなかったが背景が僅かに上り坂になっており、右の建物をよく見ると下の写真に「三山飲食店」の看板の掛かっているものらしい。
左に国府軍の機関銃座が残っている。

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正面の小路を進んで行くとキリスト教長老派教会に行く。

この写真は戦後、父の教え子が送ってくれたものである。

Tausui_Shokoen_4.jpg

そしてこの写真は2010年9月末に訪れたときに撮影したものである。

外装は変わっているが、建物自体は当時のままではなかろうか?
もしそうだとすれば、70年以上経過したことになる。


2011年04月22日

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1920年代後半の淡水小学校

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淡水小学校は街長官舎から少し上ったところにあり、女子公学校と隣接していた。
淡水中学とも近かった。

小学生だった母が写っている(後から2列目中央の白い衣服)ので1927〜8年頃の記念写真と思われる。

母はその頃、祖母と淡水街新店に住んでいた。

1929(昭和4)年4月に台北一高女に入学し列車通学を始め、1930(昭和5)年4月に祖母は淡水街嘱託として公会堂の管理を委託され、料理や仕出しの営業を始めた。

制服の教員が4名、学童(女子)36名が写っているが氏名は判らない。


2011年04月23日

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台北第一高等女学校

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昨日の本欄で「1920年代後半の淡水小学校」の写真を載せたらすぐに、LCさんからメールが来た。

お姉さんがその内の一人として写っている可能性があるというのである。
内地人と同様に日本語が使える学童は本島人でも小学校に通っていた。
家庭でも近所つきあいでも台湾語で話していた子供は、導入教育段階で日本語の補充教育をするために公学校に行っていたと聞いた。

LCさんのお姉さんは、母と同じ1916(大正6)年生まれだそうだ。

ブログに載せるために縮小していたので、元の約8倍の写真をメール添付で届けた。

こんなことがあるので「台北第一高等女学校」の写真も載せることにした。

この写真は、何処で何時撮ったのか判らないが、左側には男子生徒が写っている。

服装が様々で面白い。
男子生徒は制服・制帽が多いが、詰め襟あり、折り襟あり、シャツあり、袴あり、中には水着姿もいる。
女子もブラウスにスカートが多いが、着物あり、袴ありと多様である。

顔がよく判らないので右の女学校生徒のみを部分拡大してみた。

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母は前から2列目、左から3人目である。

小学生の頃の面影を残している。


2011年04月24日

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血清製造所から見た英国領事館

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この写真は戦後、父の教え子が送ってくれたものの中の一枚である。
裏には標記のようにペンでメモが記してある。

血清製造所は淡水の町外れにあった。

1931(昭和6)年に作られた淡水獸疫血清製造所である。
母も勤めていたことがある。

戦後、家畜衛生試験所とか家畜実験所となったが今もそこに残っている。

ちょうど英国領事館であった紅毛城の裏手にあたる。

2011年04月25日

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父のメモから(4) 

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さきに『父のメモから(1:2010年11月2日)』として淡水公学校関係者を、『同(2「淡水街の名士たち」:2010年11月4日)』としてとりあげた。

今日は別のメモを見つけたので転載してみた。

ウェブのサーバに載せるために縮小したため読みにくくなったので少し註記してみる。

初めは、淡水駅から無線を経て海水浴場まで街の概略地図を書こうとしたものらしい。

右端下方に「淡水駅」が書いてあり、欄外に隣接駅の「竹囲」が書き込まれている。

駅の山手には「ライジングサン」の石油タンクと「海軍墓地」の字が見える。

駅の左で道が分岐し、河岸沿いに老街へ行く道と、公学校の傍を通って水碓子の方に行く道に分かれる。

公学校に行く道沿いに淡水劇場、いろは亭の文字が見え、傍に「星」、「氏家」とある。
分岐路の角に煙草屋「伊達」の字が読める。

別の地図「追憶・淡水」とは道が省略されているようである。

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河岸の道を左に行くと「老義發」、「施合發」の文字があり、道を挟んで祖師廟がある。
そこから更に河岸沿いに行くと「荒」とある。これは僧・荒操天の住居であろう。

その先に「街役場」があり、「多田」と書いてある。
これは多田文具店であろう。

その左に「黒川」とあるのは両親が結婚したときに2階を借りていた塩屋の黒川さんである。

さらに「鬼頭」、「広瀬」、「谷」、「庄」、「木下」、「小倉」と書いて行くとスペースがなくなったので地図には姓のみを書いて、左上に氏名を列挙したものであろう。

小公園から「関口」、「粟井」、「野島」、「中野」、郡役所を経て「狩野」、領事館跡を過ぎて「伊藤」とある。

山側の道は公会堂の「原田」、淡水女子公の「小石」、淡水小の「水田」、「有坂」、「中原」、「小栗」、「柴山」、「三原」、領事館近くに「木村」などの名が見える。

少し離れて淡水神社には「小笠原」、その入り口にグランド、少し下がって灯台、ゴルフ場、無線があり海水浴場の「浅野」まで書いてある。

このページの上右には、富貴角、石門、老梅、小基隆(三芝)、水碓子、興化店など近郊の地名があり、上左には2段に氏名が書いてある。

庄 信雄、星、木下、伊達 七五三、黒川、広瀬 信、鬼頭 亀吉、谷 善次、松田校長、小石校長、伊之坂校長、小笠原神官、浅野タツ、木村パイロット、原田、杉村、関口、筑紫、中原街長、狩野郡守、久保田警察署長、小栗兄弟、有坂 一世、粟井 清、小倉、伊藤 勝太郎、中野金太郎、野島(東洋館)、荒操天、多田栄吉、松本、水野


2011年04月26日

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淡水公会堂の建造時期

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「1909年4月に完工した淡水公会堂は、主に一般市民に図書閲覧、食事と囲碁将棋、交流と健康などの芸術文化活動の場所を提供していた。淡水税関の「五十会」と「商船会社倶楽部」が共同で建設した。この建物は淡水教会西側の坂道を登った丘の斜面に位置し、東側は淡水稲荷神社(現在の淡水鎮立図書館所在地)に接し、総立て坪70坪あまりで、当時の淡水では最も規模の大きな文化施設であった。日本人、台湾人に関わりなく、みなここで各種の活動に参加できる「淡水公会堂規則」に拠っていた。しかし、惜しいことに戦後、火災で失われてしまった。」
(日本年特展:日本特別展覧会、拝啓 日本様 −淡水より−)
淡水古蹟博物館四周年慶特別展示(2009年12月23日)

淡水の歴史を扱っている「漁人碼頭的戰爭(http://danshuihistory.blogspot.com)」では税関の職員やその他の官吏、台湾銀行や日本商社などにより「淡水倶楽部」が作られ、淡水街営の海水浴場や公会堂を建設したと述べられているが、1909年公会堂竣工には疑問を呈しており、「1918年:興建淡水公会堂(即今淡水文化大楼所在地)、1928年8月1日:淡水公会堂落成」としている。
当時としては大きな建造物だったのであろうが工期10年というのは長すぎると思っていた。
古い地図がある。それによれば淡水字砲台埔二八に淡水稲荷社(1906年11月15日鎮座)と淡水社が建っており、隣接地は「公会堂地塊」とのみ記されている。
当時は更地であったと思われる。

このたびKGさんから複写を送って貰った、周明徳氏の「続・夕日無限好」(2000年著)によれば、淡水街民が昭和天皇の即位大典(1928年11月10日)記念行事として寄付金を募って公会堂を建てた(同年8月16日竣工)という。この寄付金の大半は淡水駅の近くに施合発製材工場を持っていた施坤山氏が提供したという。

ちなみに公会堂の本館も洋館も建設業を営んでいたLCさんのお父さんが請け負って建設された。
いずれにしても原田ユクが淡水街の嘱託になり、公会堂の管理を委ねられたのが1930年4月であった。

2011年04月27日

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施合発一帯の地図

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1930年代には淡水に 株式会社施合發商行という大きな材木商があったという。

専用の木材運搬船「大観丸」を有し淡水駅から鉄道の引き込み線もあり、専用の桟橋が3つもあった。
「大観丸」の船名は大屯山と観音山に因んでつけられたものだという。

現在のMRT淡水駅一帯の河岸公園にあたる。

上掲の地図は周明徳氏著「続・夕日無限好」から転載した。

2011年04月28日

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蔡坤煌醫師の写真

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昨日、このブログで施合発の「大観丸」に触れたら、さっそくLCさんからメールが寄せられた。

戦後の混乱期に花蓮港から淡水まで、同船に乗船したというのである。
そして、そのときのことを書いたエッセイが添付されていた。
(このエッセイはブログ「漁人碼頭的戰爭」(2010年5月14日)に掲載された)

そしてその中に、蔡坤煌医師に診療されたときのことが載っていた。
同医師は、淡水区長(淡水鎮長)蔡葉偉氏の父上で、1960年代末から淡水の風物を撮影し、その芸術性はアマチュアの域を脱していた。
私達が淡水鎮公所を訪問したとき、鎮長は出張で会えなかったが、いつかご挨拶出来ると思っている。

見出しに載せた写真は観音山を背景に淡水の千枚田を撮影したもので1970年の作品である。

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これは淡水河口を望んだもので翌年5月10日の撮影による。

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いずれも「過鏡千帆看淡水:淡水藝文中心三週年特展」に掲載されている。

同誌は蔡坤煌醫師のモノクローム写真48葉と白雙爵氏のカラー写真48葉が掲載されている。


2011年04月29日

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淡水郡役所

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淡水郡役所の写真である。

淡水の街役場は駅に近い新店街にあったが、郡役所はもっと河口寄りで郵便局の先にあった。

河下側に隣接して当時の郡守官舎があった。当時の郡守は狩野氏であった。

そして、近くに税関があった。

父が

この写真は淡水古蹟博物館に掲示されていたものである。
解説によれば1923年に建設されたという。

2011年04月30日

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淡水中學

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淡水中學の前身は淡水に渡来し、キリスト教を宣教し台湾おけるに医療と教育を広めた馬偕博士が設立したミッションスクールであった。

当時の淡水中學は認定されておらず、上級校への進学が認められていなかった。
1938(昭和13)年に台湾総督府の認定を獲得し、私立淡水中学校と改名した。

この淡水中学校に赴任したのが有坂一世校長であった。
淡水高等女学校の校長を兼務していたが、台湾人の生徒が多い両校のレヴェル向上に尽力した。
まだ正規の中学校として認定される前に、台北第一中学校から次男を淡中に転校させるなど、既に台北高等学校に進学していた長男以外を出来たばかりの淡水中学校に通学させている。

1940(昭和15)年度の卒業生が第1回卒業生となるが、1941(昭和16)年に淡水中学校4年生が、台北高等学校の高等科に合格した。
後に中華民国総統となる李登輝氏である。

上掲の写真は淡水古蹟博物館で撮影したものであるが、有坂校長の作詞による同校の校歌が4番まで掲げられている。

なお同校は現在も名門、淡江高級中學として存続している。


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