(上図再掲)
周明徳氏の「續・夕日無限好」に記してあったことに基づいて一週間まえの本欄で、幼い頃とてもお世話になった李樹林医師のことを書き、その3日後に淡水が空襲を受けたことを記した。
これを読んでくれたLCさんから李医師のことや周明徳氏の御尊父が空襲の犠牲になったことなどを知らせてくれた。
『このブロッグで周明徳さんの父上が1944-10-12日の空襲の被害者と知りました。彼のお父さんは当時施合発木材会社の職員だったから、多分、駅前の会社で直撃弾を受けて亡くなった人たちの一人だったと思われます。投弾した飛行士が私と文通したグラマン戦闘機の操縦士だった可能性もあります。拙作「グラマン艦載機」参照。家の姉さんの話では、その日、いつもの通りなら駅前でお茶の一服をする親父が鍬などの工具を携帯していたから裏道を選んだとか、お陰で災難を免れたとのことでした。
人口一万足らずの田舎町の町医者、李樹木先生がまた登場してきました。淡水の町医者といえば蘆秋貴先生が第一番目にあげられます。蘆先生は杜聡明先生と公学校時代から医学校までの同窓でした、一人は研究、別の一人は臨床の道を選んだわけです。李先生が開業した四十年代当時、淡水にはボストンの鄭博士の父上、鄭子昌先生や228事件で殺された張七郎先生なども開業していましたが、一生を市民奉仕に捧げたのは李先生一人だけでした。
李先生の祖、先祖伝来の家は小坪頂への途中、淡水駅を右手に見ながら公共墓地を超え、水上飛行場と測候所を過ぎると紅木樹林が見えてきます、そこで左側の丘を登ると小半時間で池を前にしたその四合院作りの先祖の家へつきます。書きながら、その池でカラス貝を捕った記憶が浮かびます。李先生の祖父は彼の有名な忠寮の李家の流れをくむ一人で農業に従事しました。祖母が99歳で亡くなったときには六代満堂で、皆から羨ましがられたとか。李先生のお父さんには三人兄弟の長男で、次男と結婚したのが家母の従姉妹だったから、私たちは李先生とは遠い親戚にあたります。戦後のある日、淡水の町の息子を訪ねての帰り道、公共墓地の横でシナ兵の車に突き飛ばされて、李先生のお父さんは、その場で即死しました。
李先生は五人兄弟の長男でただ一人医者になり、台北市の太平町の医者、余先生の娘と結婚して一男三女をもうけました。その余先生の息子が余宗光先生で台湾大学病院の産婦人科医師、不思議な縁で私の長女のお産の時に「特別指定医師」として、お願いした先生でした。産婆さんの時代が産婦人科の先生へと移り変わる時代でしたから。
六十年代初期、李先生は慢性肝炎との噂さが町に流れ、皮膚の色黒いのはゴルフによる日焼けだと言う人もあったが、あのときから、李先生は毎日昼休みは三時間きっちり取り、戸に鍵を掛けて患者の侵入を防いでいました。その後、アメリカに来た娘を頼って渡米してロスLos Angelsに在住したと前日、南米はブラジルに住む私の末の姉さんと電話して知った次第です。あの頃、ブロッグの写真にあった淡水中学校長の陳泗智先生もロスにいて、さぞ皆で同卿会を楽しんだと思われます。同じ頃、周明徳さんも米国でしたが、首都ワシントンDCで東西両岸で三千マイルも離れていました。
ある時、帰国中の飛行機の上で偶然知りあった人に、淡水の李先生を知っているかと訊かれました。その人の妹が李先生の一人息子の結婚相手と知り狭い世の中だと感じたが、残念にも李先生の一人息子は父よりも先に亡くなったと知らされました。校長先生も亡くなった、余宗光先生も逝った、李先生も多分今では他界したと思う。誰も宇宙の流れには到底逆らうことが出来ない。何時か来る日は必ず来る。その日まで、毎日を精一杯に楽しく暮らしたいと願うのは私一人だけではない筈でしょう。』