1944(昭和19)年秋のことである。
その年の6月に三芝公学校の教頭をしていた父は応召して台南の部隊に入隊し、家族は小基隆から淡水に戻っていた。
淡水の街が空襲を受け、街が炎上した。
米海軍第3艦隊の空母から来襲した艦載機が台湾全土を空襲したのである。空襲は3日間にわたって行われたというが淡水はその初日に銃爆撃を受けたのである。
淡水駅の近くにあったライジングサン石油のタンクも炎上した。
(ライジングサン石油はロイヤル・ダッチ・シェルの日本法人であった)
夜、祖母と母が手を引いて夜道を山手に向かって逃げた。
坂道で、淡水街を振り返って見ると、石油タンクから炎が燃え上がり、夜空を焦がしていた。
怖かった。子供心に焼き付いている。
これを期に、せめて子供達だけでも生き延びて欲しいので避難させようという話が出て、淡水小学校の学童を北投の善光寺に疎開させることになった。
周明徳氏の私家本によれば、この空襲は1944年10月12〜14日のことであった。
淡水街ではこの日、二十数名の民間人が犠牲になったという。
そして周氏の御尊父が空襲の犠牲になったことを知った。