(1994年、「飛鳥」船上より鳥島を望む)
周 明徳氏は台湾総督府気象台で4年間勤務した。
1942年4月から一年間養成所で教育を受け、その間竹仔湖、大屯山の両測候所で50日間実習を兼ねた勤務を行い、年末に10日にわたる蘭陽平原の気象調査隊に参加した。1943年1月には新港(現:成功)測候所で一ヶ月実習兼勤務を行っている。
養成所を修業したのち、花蓮港(現:花蓮)測候所に一年間技手(判任官)として任官。
その後、彭佳嶼(アジンコート)測候所に4ヶ月(1944年3月〜1944年7月)勤務した。
その後、一ヶ月台北気象台のラジオゾンデ係りを勤務したあと、新高山測候所で4ヶ月勤務し、台北気象台の通報係で2ヶ月勤務して軍隊に招集されて半年間軍務に就いていた。
復員して新港測候所長に就任、1945年11月に政権移転により台湾総督府気象台が台湾省気象局になったのでその職員となっている。
有坂一世校長の次の項は、この彭佳嶼(アジンコート)測候所勤務に関するものである。
「アジンコート/エジンコート」とウェブで引くと「百年戦争中の1415年にイギリス軍がフランス北部に圧勝したアジンコート(あるいはアジャンクール)の戦い」とか、「ウェッジウッド製ティーカップのブランド名」とか、「ブラジル海軍が発注した戦艦リオ・デ・ジャネイロを英海軍が強制的に接収した戦艦エジンコート」などとともに「台湾北部沖の孤島、彭佳嶼」が載っている。
基隆港の北東約56kmの東シナ海にあり、今も燈台・測候所・海軍の警備要員が配置されている。
しかし当時、島の人口は灯台守と測候所に配属されたほぼ25名であったという。
しかも1年365日の内、183日が暴風雨という異常な強風で木は存在できず、茅ばかりで、測候所では2坪ほどの畑を作って銛で突いた魚で暮らしていたという。
この島から望遠鏡で覗くと台湾本島の稲妻は見えたが遠距離のため雷は聞こえなかったという。
日本にも伊豆七島と小笠原諸島の間の東京南方約600kmに鳥島があり、かつては測候所もあった。
今も当時使われたと思われる廃屋約10棟を見ることができる。
山頂に見えるのは測候所の跡であろうか?
ジョン万次郎ら5名が鳥島に漂着し3ヶ月後にアメリカの捕鯨船に救助されているが、漂着した者のなかには1785年に土佐から漂流しアホウドリを食いつないで12年間生活し、後から漂着した者達と一緒に船を造って青ヶ島に脱出した漁師、野村長平のような例もあるという。