淡水が空襲に遭って、学童疎開が実施されることになった。
疎開先は七星郡北投庄の善光寺である。
善光寺は北投庄の温泉街を抜けて急な坂を登った丘の上にあった。
交渉の上、収容でき面倒を見ることの出来る人員なども勘案して上級生のみを疎開させることになったのだと思う。
引率する教師だけでは世話を見切れないので、祖母や母は淡水小学校の保母ということで一家で同行することになった。1945(昭和20)年のことであった。
その頃になると空襲警報が頻発するようになった。
子供にも防空頭巾を被せて、よく郵便局などの防空壕に逃げ込んだ。
2歳の妹は暗くてじめじめした防空壕から出たくて「空襲警報解除よ!」と言ったりしていた。こんな小さな子供に「警戒警報」、「空襲警報」、「空襲警報解除」、「警戒警報解除」、「防護警報」などの行動を教えていたのである。
そとで遊んでいて「空襲警報」のサイレンが鳴ると、家や親を捜すのではなく近くの防空壕に走ることになっていた。
祖母はその少し前まで公会堂の管理人を兼ねて食堂や仕出し屋をやっていたので、学童用に仮設の烹炊所も作られ、多くの子供達の面倒を見ることもさることながら烹炊所の管理や食材の買い出しなどにも経験が活かせると思われたのだろうか。
修行用の山寺に上る急坂を大きな冬瓜を苦力2人が天秤棒で担ぎ上げていたのを覚えている。
ある日、学童の一人に危険な悪戯をして母に叱られた。
狭い山寺の境内は子供達も居るので真っ暗な防空壕に連れて行かれてひどく叱られた。
大きくなって母が話してくれたところによると、母に謝ったあと「お父さん!」と大声で叫んだそうである。
本当は母の方が、そう言って泣きたかったに違いない。
台湾沖海戦に敗れ、制空権を失った台湾は連日のように空襲に曝された。
ある日、グラマンの銃撃を受けたのである。
当時は七星郡北投庄と言っていた郊外の田舎であった。
その日も定期便のように艦載機が来襲していたが、学童を防空壕に避難させて寺の本堂の縁で字義通り高みの見物をしていた。
ところがその日は1機がいきなり善光寺をめがけて上昇して来た。
大人たちは慌てて防空壕に走ったけれど間に合わず、本堂脇の烹炊所に駆け込んだ。
母と祖母が私たち兄妹を流しの下に押し込んで、その上に被さってきた。
その肩越しに、竹葺きの屋根にバラバラと機銃弾が撃ち込まれるのが見えた。
母の話によると、私は小学生になっても稲光を怖がっていたそうである。
山の中のでいろいろ経験した。
灯火管制の薄暗闇で毛虫を握ってしまったこともある。