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2011年03月 アーカイブ

2011年03月01日

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龍目井の我が家

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捜し物をしていて淡水の龍目井で住んでいた家ではないかと思う木造建築を見つけた。

上の写真はカリフォルニアのLCさんが送ってくれた航空写真の一部である。

左端に公會堂が写っており右上には紅楼が見え、その中間にキリスト教長老派の教会が見える。

道路の交差したところは当時小公園と呼んでいた三角形のエリアがある。
その交差点の左がボストンの博士の生まれた医院である。

私が幼い頃、祖母が公會堂の管理人を辞めて龍目井に移り、そこで妹が生まれた。
同僚の丹羽氏が移転したあとである。

引き揚げてから父の教え子であった人から何度も淡水の写真を送って貰った。裏には「先生の宿舎」、「裏から見た先生の宿舎」と書いてある。
どうやら、その家は上の写真の黒ペンで囲ったものらしい。
おぼろげな記憶では通りに面しておらず、路地を入ったところであった。
玄関前で撮った写真などから推測すると赤ペンで囲った家のような気がしてならない。
両親の残してくれたメモにある『郵便局の近くで、裏口からは、同僚の安武さんの家の裏口に通じていた。』という記述にも合致する。

いまは道路も整備され、建物も建て変わっているが、そんな気がしてならない。


2011年03月02日

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淡水河口を望む

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現在は中山路と呼ばれて老街をバイパスする幹線路となっているが、戦前は油車口から来た道はイギリス領事館の辺りから河岸沿いの道と分かれて緩やかな登り坂になっていた。

丘に上る道はそこから公會堂や稲荷社のある木立を迂回して新生街、新民街の方へ曲がっていた。

ここに示した古い写真はそこから河口を望んだものである。

まさに日が八里の向こうの海に沈もうとしている。

この頃になると淡水河は堆積がすすみ、外航船は入港しなくなっていたが淡水には税関もあり、水先人(パイロット)もいた。

それにしても、いかにも穏やかな良い写真である。

2011年03月03日

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元淡水街長旧居

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上の写真は2年前に訪台したときに撮影した旧街長官舎である。

日本式家屋がそのまま残されており、長らく放置されていたので榕樹(ガジュマル)が延び放題になっていた。

手前の道を右に行くと淡水小学校、女子公学校へ通じていた。

そのときは閉ざされた門に工事中と書いてあったように記憶しているが工事をしているようには見えなかった。

しかし、淡水古蹟博物館の観光マップではチェックポイントの番号がふられ「淡水街長多田榮吉故居」と記されていたので復旧工事をしようとしていたのであろうか?
街路にも、それら観光ポイントへの案内が表示されていた(1月11日の項参照)。


2011年03月04日

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淡水港の外航船

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滬尾砲台(臺北縣立淡水古蹟博物館)の土塁のなかは往時の写真が沢山展示されている。
その中に淡水河に停泊する外航船の写真もあった。

説明には「日據時期の淡水港口」としか書いてなかったので撮影時期は判らない。

ただ淡水鎮(区)公所の年表によると、1897(明治30)年に日本郵船が淡水・福州航路、香港・淡水航路を、大阪商船が1899(明治32)年に淡水・香港航路を開設したが1909(明治42)年に淡水・福州航路などが廃止されたと載っているので、その間のことであろう。

しかし、ジャンク(戎克)などがその後も出入りしていたので税関もあり、パイロット(水先人)もいた。

2011年03月05日

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淡水文化国小

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当時、公會堂の裏手に女子公学校と隣接して淡水小学校があった。

日本人だけでなく、少数ながら日本語の授業が理解できる本島人(台湾人のことを当時はそう呼んでいた)の子弟も通っていた。

淡水女子公学校は淡水文化国民小学となり、淡水小学校のあとは淡水高級中學の一部になっているらしい。写真は数年前に訪台したときに撮影した正門である。


2011年03月06日

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淡水区(旧鎮)立図書館下のクロトン

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ガジュマル(榕樹)、龍眼、ヒルギなど台湾の植物は懐かしいが、クロトンもその一つである。

変葉木という別名でも呼ばれているが、その名の通り葉の形や色が同じ植物かと見まがうばかりに様々な姿を見せてくれる。

この写真は淡水区立図書館下の馬偕博士の旧宅へ通じる道の傍に自生していたものである。

近くの真理大學構内の通路脇にも並べて植えてある。


2011年03月07日

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佐賀県の切手

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今年の1月に佐賀県の小型シートが年初に発売になった。

佐賀県は、ほかの県のように封建時代の一つあるいは二つの藩を県と置き直しただけではない。
1871(明治14)年7月14日、廃藩置県により当時の藩をそのまま佐賀県、蓮池県、小城県、鹿島県、唐津県、厳原県となった。
9月4日に厳原県は佐賀県と合併し伊万里県となった。
11月14日には蓮池県、小城県、鹿島県、唐津県が伊万里県に編入された。
旧肥前国は長崎県と伊万里県になったのである。
翌年1月に旧佐賀藩の諫早、神代、伊古、西郷、深掘が長崎県に編入され、5月29日に伊万里県は佐賀県に改称され、8月19日には対馬(旧厳原県)が長崎県に編入された。1876年には佐賀県は長崎県に編入され、1883年に長崎県の10郡(佐賀・小城・神崎・基肄・養父・三根・杵島・藤津・東松浦・西松浦)が分離独立し、改めて佐賀県となった。

非常に大雑把に言えば、旧肥前国が長崎県と佐賀県に分かれたのである。

佐賀県は玄界灘に面し海岸に沿った山岳地帯である唐津藩と、有明海に面した湿地であった佐賀藩にわけて考える方が理解しやすい。
佐賀県でも唐津側は新聞に掲載される天気予報も福岡県を参考にする。

私の祖母 松浦リセも、明を再興しようと台湾に拠った鄭成功の母親 田川マツも肥前の出身である。

本籍地は平成の大合併で唐津市に編入されたが、佐賀平野よりも長崎、佐世保、平戸などのある長崎県の方に親しみを感じるのである。

小型シートの切手は、上に佐賀県出身の宰相 大隈重信、下の田の字は右上から時計回りに「祐徳稲荷」、「唐津くんちの山車『鯛』」、「佐賀平野の熱気球大会」、「吉野ヶ里遺跡」である。

やはり、一つ選ぶとすれば「唐津くんち」である。

2011年03月08日

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台北第一高女

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母は淡水から台北第一高女に列車通学していた。

今も残っているというこの建物は守衛所か何かに使っていたのであろうか?

校訓を刻んだ石もまだそのままあるようだ。

いまは臺北市立第一女子高級中學となっているという。

台北第一高女の同窓会「みどり会」は戦後も毎年行われており、沖縄で開催されたときには130名も集まったという。


2011年03月09日

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淡水線のガソリンカー

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昨日、この欄で母が淡水から台北第一高女に汽車通学をしていたと書いたら、ボストンの博士から "not by train ?" と問い合わせがあった。

鉄道列車のことを日本では汽車というが台湾では火車と言い、自動車を汽車という。
ちなみにバイクは機車である。

このページは外国の人も見てくれているのだから注意しなくてはいけない。

私が幼い日の淡水線に乗った思い出は戦時中のことである。
列車が台北に入って、明治橋の近くに掛かっている鉄橋に掛かるとき乗客は起立して最敬礼をしていた。
また、車窓から要塞や軍事施設はなかったと思われるが、ある地点にさしかかるとブラインドを降ろして窓の外を見ないようにしていた。

淡水線にはそのころ気動車も運行されていた。
ガソリンカーと呼んでいたので、引き揚げてからも父はディーゼル車のことをガソリンカーと言ったことがある。

写真は士林駅構内に停車しているガソリンカーである。

路線はほぼいまのMRTの経路に敷設されており、駅名も圓山、士林、北投、竹囲などは同じであったが、関渡は音読みの近い江頭となっていた。

2011年03月10日

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淡水線の蒸気機関車

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「淡水線のガソリンカー」を載せたら今度はカリフォルニアUSAのLCさんから当時の様子を記した長文のメールが届いた。

当時の淡水線は蒸気機関車の牽引する4輌編成が基本で、ガソリンカーは利用客の少ない時間帯に運行されていたという。

単線なので途中駅での対行列車の待ち合わせとか、トンネルでの煤煙の話とか、列車通学生の話や、戦後国府軍兵士による臨検の話などとてもここでは紹介しきれない。

上掲の写真は臺北縣立淡水古蹟博物館になった滬尾砲台に掲示されていた写真を撮影したものである。


2011年03月11日

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オレンジ色の複葉練習機

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台湾か内地かよく判らない。
場所も漠然と田舎のようであったというほかはない。
しかし、確かにオレンジ色に塗装された複葉練習機が飛んでいるのを見た記憶がある。

敗戦で民間機も含めて航空機はすべて禁止されていたのだから戦時中に違いない。
淡水か三芝に居たころである。
どう考えても淡水とは思えない。
そうすると三芝に居た時期のことであろう。

台湾に練習航空隊があったかどうか判らない。

しかし、新竹航空隊という部隊があり、陸攻の操縦要員や偵察要員の実用機教育が行われていたという文献を見つけた。
松山の飛行場からは陸攻が重慶など大陸に向けて渡洋攻撃に出撃していたことは母が話していた。

でもかすかに覚えているのは複葉の陸上練習機である。

練習機だから思うように飛べないこともあり、これと出会った飛行機の方が避けなければならない。
それで目立つように機体も翼もオレンジ色に塗られていた。

人はその色から「赤とんぼ」と言っていた。

ただ、それだけのことであるがふと思い出したのである。
むろん、型式などは判らない。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

2004年頃から現在も引き続き陸海軍(主に海軍航空隊)の戦史や搭乗員などについて調べてウェブで発表している人が居る(http://ameblo.jp/pico3298/)。

決して戰争礼賛などではなく、任務として空に散った方々の鎮魂のページである。

このページを知って「紺碧の海(https://www.shipboard.info/blog/)」の生い立ちの記で淡水に配備されていた零式水上観測機のことを尋ねたことがある。

それにしてもインターネットは凄い。
「紺碧の海」で知り合いになったカリフォルニアのLCさんの知り合いが淡水で零観に乗っていたことを知ったのもその恩恵である。

2011年03月12日

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淡水線の列車転覆

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淡水線では1932(昭和7)年8月24日に大きな事故があった。

上掲の写真は淡水区公所の公式ホームページの「認識淡水・淡水大事記・日據時代」の一部を撮したものである。

竹囲・江頭(関渡)間で颱風のため、列車が転覆し41名が溺死したと記されている。
淡水獸疫血清製造所ができた翌年のことである。

そして、昨日(2011(平成23)年3月11日)、東日本で関東大震災の10倍もの大震災が発生した。走行中の列車と連絡が途絶し、停車していた一編成が津波に飲み込まれてしまった。

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東京電力の福島第1原子力発電所は爆発音がして白い煙があがったと報じられ、同第2発電所も半径10kmの住人に退避指示が出されている。
この地震の余震はまだ続いており、津波警報も引き続き発令中である。
人的被害も4桁を越えると思われるが、未だ被害を評価できる時期ではない。


2011年03月13日

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淡水と肥前長崎との絆

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九州・長崎と淡水との絆は太く永い。

前掲の淡水区公所の公式ホームページの「認識淡水・淡水大事記・日據時代」によれば1910(明治43)年に 淡水・長崎間に海底電線が敷設されている。

上掲のケーブル敷設船は三菱造船下関造船所で建造され当時の国際電電に引き渡された「KDD丸」(下関造船所第633番船:1967年竣工)である。
ケーブル敷設船の設計者として第一人者のK博士が設計統括としてまとめ上げた海洋電線敷設船である。
まだ造船企業に居た当時、事業所は違っても親しくお話しさせて貰っており、技術担当をしていた浚渫船の学位論文を書くときに博士の論文を貰ったことがある。
私の場合、論文を査読して貰っていた九州大学のO教授が亡くなったので審査も受けないままになってしまった。

昨年 淡水を訪問したときに三芝国小を訪問したが、そこで案内してくれた教務主任Yさんは長崎市の稲佐小学校に出張したと言っていた。

手を伸ばせば届くと言うわけには行かないが縁は深い。


2011年03月14日

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半世紀ぶりに感激の対面

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横浜のKさんから写真を送って貰った。

3月9日に感激の対面があった。

武治さんとは半世紀ぶりの再会で、興一さんとは初めての対面であったという。

Kさんは昨年の淡水会会場を訪ねたが、興一さんは一日目のみ出席して帰られた後であった。9日に念願の対面が果たせて、とても明るい声で会場から電話を貰った。

私も電話でご挨拶し「今年の淡水会で逢いましょう」と約束した。

2011年03月15日

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東日本大震災に台湾から救援隊到来

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震災発生と同時に支援を申し入れ準備を整えていた台湾政府が組織した救援隊が14日午前9時15分(日本時間10時15分)台北松山空港発の中華航空機で東京に向かった。
行政院消防署特捜隊9名のほか、台北・新北・台南3市の救援隊で構成された28名で、松山空港で結団式を行い隊旗を授与された。

なおこの救援隊は教官クラスメンバーで構成され、人命探査装置、光ファイバースコープなどの捜索機材や医療、衛星通信、後方勤務機材、救助犬などを装備しているという。

現政権が救援の申し出を受け、検討に時間を掛けていたためにこの時期になってしまったものである。

台湾同胞の支援に満腔の感謝を表明する。


2011年03月16日

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周明徳氏の著書

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今朝、横浜のKさんからメールが届いた。

 「先日KOさまからいただいた周明徳さんの著作コピーを
  昨日郵送いたしました。
  内容がたいへん濃く、参考になるとおもいましたので・・・。」

周明徳氏は気象技官であったが、淡水国小の卒業で、同校創立百周年記念式典で表彰されている。

先月の本欄の記述と重複するが、筆頭は台湾の阿片政策功労者の杜聡明博士、第2位が台湾の総統にもなった李登輝博士、そして第3位が周明徳氏である。

淡水の測候所や気象観測機のことも載っているかもしれない。

楽しみに待つことにしよう。


2011年03月17日

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「『續・夕日無限好』・周明徳撰」到来

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横浜のKさんが送ってくれた標記資料のファイルが郵送されてきた。

A4ファイル、150ページのカラープリントである。

いちいち手焼きで複写して貰ったと思い感謝して受領した。

周氏の生まれ育った淡水の話は勿論であるが、捜しても滅多に資料の見つかることのない離島、アジンコートの測候所にも勤務していたときに大和、武蔵など大艦隊を見た話や、淡水中学校の有坂一世校長の話から童謡ペタコの話までめくるページごとに釘付けになる。

ゆっくり読ませて貰おうと思う。

Kさん、本当にありがとうございました。


2011年03月18日

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お世話になった懐かしい名前

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周氏の私家本「續・夕日無限好」の第一項は淡水中学校の有坂一世校長である。
図版27葉を含めて小さい字でびっしり26ページにわたって、有坂校長の人となりや功績が記載されている。

その項の末尾近くに同校長が1970年に訪台したときの記念写真が載っている。

そこに李樹林医師の名前があった。
写真に主要人物の註が載っているが、そのなかで李樹林医師のところにのみ「有坂校長と懇意な仲」と記されている。

実は幼い頃、とてもお世話になった先生である。
両親の書き残してくれた『轍の跡:第一編:紀夫生い立ちの記(誕生より大学入学まで)』の最初のページに
「何しろ大事にし過ぎたせいか、胃腸が弱くよく医師の李樹林の厄介になったものである。」
とある。

そのページに出てくる氏名は
誕生に居合わせた者:廣川研一、原田ユク、山本保
産婆:       市川ヲコ
母:        廣川時子
医師:       李樹林
資生堂:      広瀬 信
同僚教師:     小栗兄弟
淡水公学校長夫人: 松田サト
の方々である。

1970年と言えば私が生まれてから30年経過しているが写真に写っている李樹林先生は半袖の開襟シャツで若々しい。

2011年03月19日

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アジンコート測候所

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(1994年、「飛鳥」船上より鳥島を望む)

周 明徳氏は台湾総督府気象台で4年間勤務した。

1942年4月から一年間養成所で教育を受け、その間竹仔湖、大屯山の両測候所で50日間実習を兼ねた勤務を行い、年末に10日にわたる蘭陽平原の気象調査隊に参加した。1943年1月には新港(現:成功)測候所で一ヶ月実習兼勤務を行っている。

養成所を修業したのち、花蓮港(現:花蓮)測候所に一年間技手(判任官)として任官。
その後、彭佳嶼(アジンコート)測候所に4ヶ月(1944年3月〜1944年7月)勤務した。

その後、一ヶ月台北気象台のラジオゾンデ係りを勤務したあと、新高山測候所で4ヶ月勤務し、台北気象台の通報係で2ヶ月勤務して軍隊に招集されて半年間軍務に就いていた。
復員して新港測候所長に就任、1945年11月に政権移転により台湾総督府気象台が台湾省気象局になったのでその職員となっている。

有坂一世校長の次の項は、この彭佳嶼(アジンコート)測候所勤務に関するものである。
「アジンコート/エジンコート」とウェブで引くと「百年戦争中の1415年にイギリス軍がフランス北部に圧勝したアジンコート(あるいはアジャンクール)の戦い」とか、「ウェッジウッド製ティーカップのブランド名」とか、「ブラジル海軍が発注した戦艦リオ・デ・ジャネイロを英海軍が強制的に接収した戦艦エジンコート」などとともに「台湾北部沖の孤島、彭佳嶼」が載っている。

基隆港の北東約56kmの東シナ海にあり、今も燈台・測候所・海軍の警備要員が配置されている。

しかし当時、島の人口は灯台守と測候所に配属されたほぼ25名であったという。

しかも1年365日の内、183日が暴風雨という異常な強風で木は存在できず、茅ばかりで、測候所では2坪ほどの畑を作って銛で突いた魚で暮らしていたという。

この島から望遠鏡で覗くと台湾本島の稲妻は見えたが遠距離のため雷は聞こえなかったという。

日本にも伊豆七島と小笠原諸島の間の東京南方約600kmに鳥島があり、かつては測候所もあった。

今も当時使われたと思われる廃屋約10棟を見ることができる。

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山頂に見えるのは測候所の跡であろうか?

ジョン万次郎ら5名が鳥島に漂着し3ヶ月後にアメリカの捕鯨船に救助されているが、漂着した者のなかには1785年に土佐から漂流しアホウドリを食いつないで12年間生活し、後から漂着した者達と一緒に船を造って青ヶ島に脱出した漁師、野村長平のような例もあるという。


2011年03月20日

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世界和平公園

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現在、台湾新北市淡水区(旧淡水鎮)では油車口の台湾ゴルフコースの近くに世界和平公園を整備する計画が進められているという。

大東亜戦争の戦没者を祀るために建設されるという話であるが、15世紀ころのスペイン人やオランダ人、それに19世紀にこの地で陸戦の行われた清仏(清法)戰争で亡くなった人たちも併せて慰霊するので「世界和平公園」と呼ぶのだそうである。

ボストンの博士は淡水に在住しており戦後引き揚げた人もことも記録に留めるために判ることを知らせて欲しいと連絡を貰った。

とりあえず公会堂の管理人をしていた祖母など家族の生い立ちなどをメモにして届けようと思っている。

2011年03月21日

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淡水、空襲を受ける

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1944(昭和19)年秋のことである。
その年の6月に三芝公学校の教頭をしていた父は応召して台南の部隊に入隊し、家族は小基隆から淡水に戻っていた。

淡水の街が空襲を受け、街が炎上した。
米海軍第3艦隊の空母から来襲した艦載機が台湾全土を空襲したのである。空襲は3日間にわたって行われたというが淡水はその初日に銃爆撃を受けたのである。

淡水駅の近くにあったライジングサン石油のタンクも炎上した。
(ライジングサン石油はロイヤル・ダッチ・シェルの日本法人であった)

夜、祖母と母が手を引いて夜道を山手に向かって逃げた。

坂道で、淡水街を振り返って見ると、石油タンクから炎が燃え上がり、夜空を焦がしていた。
怖かった。子供心に焼き付いている。

これを期に、せめて子供達だけでも生き延びて欲しいので避難させようという話が出て、淡水小学校の学童を北投の善光寺に疎開させることになった。

周明徳氏の私家本によれば、この空襲は1944年10月12〜14日のことであった。
淡水街ではこの日、二十数名の民間人が犠牲になったという。
そして周氏の御尊父が空襲の犠牲になったことを知った。

2011年03月22日

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北投庄の善光寺へ学童疎開

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淡水が空襲に遭って、学童疎開が実施されることになった。

疎開先は七星郡北投庄の善光寺である。

善光寺は北投庄の温泉街を抜けて急な坂を登った丘の上にあった。

交渉の上、収容でき面倒を見ることの出来る人員なども勘案して上級生のみを疎開させることになったのだと思う。

引率する教師だけでは世話を見切れないので、祖母や母は淡水小学校の保母ということで一家で同行することになった。1945(昭和20)年のことであった。

その頃になると空襲警報が頻発するようになった。
子供にも防空頭巾を被せて、よく郵便局などの防空壕に逃げ込んだ。
2歳の妹は暗くてじめじめした防空壕から出たくて「空襲警報解除よ!」と言ったりしていた。こんな小さな子供に「警戒警報」、「空襲警報」、「空襲警報解除」、「警戒警報解除」、「防護警報」などの行動を教えていたのである。
そとで遊んでいて「空襲警報」のサイレンが鳴ると、家や親を捜すのではなく近くの防空壕に走ることになっていた。

祖母はその少し前まで公会堂の管理人を兼ねて食堂や仕出し屋をやっていたので、学童用に仮設の烹炊所も作られ、多くの子供達の面倒を見ることもさることながら烹炊所の管理や食材の買い出しなどにも経験が活かせると思われたのだろうか。
修行用の山寺に上る急坂を大きな冬瓜を苦力2人が天秤棒で担ぎ上げていたのを覚えている。

ある日、学童の一人に危険な悪戯をして母に叱られた。
狭い山寺の境内は子供達も居るので真っ暗な防空壕に連れて行かれてひどく叱られた。
大きくなって母が話してくれたところによると、母に謝ったあと「お父さん!」と大声で叫んだそうである。
本当は母の方が、そう言って泣きたかったに違いない。

台湾沖海戦に敗れ、制空権を失った台湾は連日のように空襲に曝された。
ある日、グラマンの銃撃を受けたのである。

当時は七星郡北投庄と言っていた郊外の田舎であった。
その日も定期便のように艦載機が来襲していたが、学童を防空壕に避難させて寺の本堂の縁で字義通り高みの見物をしていた。
ところがその日は1機がいきなり善光寺をめがけて上昇して来た。
大人たちは慌てて防空壕に走ったけれど間に合わず、本堂脇の烹炊所に駆け込んだ。

母と祖母が私たち兄妹を流しの下に押し込んで、その上に被さってきた。
その肩越しに、竹葺きの屋根にバラバラと機銃弾が撃ち込まれるのが見えた。
母の話によると、私は小学生になっても稲光を怖がっていたそうである。

山の中のでいろいろ経験した。
灯火管制の薄暗闇で毛虫を握ってしまったこともある。


2011年03月23日

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淡水街長、多田榮吉氏旧宅

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淡水の観光地図に古蹟として掲載されている『淡水街長・多田榮吉故居』は馬偕街19号にある。

多田榮吉氏は1930年から1933年の間、淡水街長を勤めた。日本年特別展のために淡水で発行された資料には「その施政での功績を列挙すれば暇がなく、淡水地区の発展に尽力した。」と述べられている。

さらに「これは全台で最初の水道を引いた民家で、淡水地区が台湾の近代化の発展途上で果たした重要さの里程標の地位を占めている。」とも紹介されている。

2011年03月24日

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淡水以外の訪問地

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1995年にクルーズ船「飛鳥」で基隆に入港したときから台湾には10回近く行っているが台北、淡水以外には殆ど行っていない。

クルーズで行ったのは2回、「飛鳥」で基隆に寄港したときと2002年から2003年になる「ぱしふぃっくびいなす」の年末年始クルーズで高雄と基隆に入港したときである。
高雄に入港したときはオプショナル・ツァーで台南に行った。

2008年1月に行ったときは夕方、九に行ったことがある。
そのときは新幹線で新竹に行った。
帰りは在来線「光」号に乗ってみた。

その翌年には、花蓮・太魯閣に行った。このとき松山飛行場から花蓮まで国内線の旅客機に乗った。

写真は戦前のままの新竹駅舎である。

2011年03月25日

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李樹林医師(LCさんのEメールから)

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(上図再掲)

周明徳氏の「續・夕日無限好」に記してあったことに基づいて一週間まえの本欄で、幼い頃とてもお世話になった李樹林医師のことを書き、その3日後に淡水が空襲を受けたことを記した。

これを読んでくれたLCさんから李医師のことや周明徳氏の御尊父が空襲の犠牲になったことなどを知らせてくれた。

『このブロッグで周明徳さんの父上が1944-10-12日の空襲の被害者と知りました。彼のお父さんは当時施合発木材会社の職員だったから、多分、駅前の会社で直撃弾を受けて亡くなった人たちの一人だったと思われます。投弾した飛行士が私と文通したグラマン戦闘機の操縦士だった可能性もあります。拙作「グラマン艦載機」参照。家の姉さんの話では、その日、いつもの通りなら駅前でお茶の一服をする親父が鍬などの工具を携帯していたから裏道を選んだとか、お陰で災難を免れたとのことでした。

人口一万足らずの田舎町の町医者、李樹木先生がまた登場してきました。淡水の町医者といえば蘆秋貴先生が第一番目にあげられます。蘆先生は杜聡明先生と公学校時代から医学校までの同窓でした、一人は研究、別の一人は臨床の道を選んだわけです。李先生が開業した四十年代当時、淡水にはボストンの鄭博士の父上、鄭子昌先生や228事件で殺された張七郎先生なども開業していましたが、一生を市民奉仕に捧げたのは李先生一人だけでした。

李先生の祖、先祖伝来の家は小坪頂への途中、淡水駅を右手に見ながら公共墓地を超え、水上飛行場と測候所を過ぎると紅木樹林が見えてきます、そこで左側の丘を登ると小半時間で池を前にしたその四合院作りの先祖の家へつきます。書きながら、その池でカラス貝を捕った記憶が浮かびます。李先生の祖父は彼の有名な忠寮の李家の流れをくむ一人で農業に従事しました。祖母が99歳で亡くなったときには六代満堂で、皆から羨ましがられたとか。李先生のお父さんには三人兄弟の長男で、次男と結婚したのが家母の従姉妹だったから、私たちは李先生とは遠い親戚にあたります。戦後のある日、淡水の町の息子を訪ねての帰り道、公共墓地の横でシナ兵の車に突き飛ばされて、李先生のお父さんは、その場で即死しました。

李先生は五人兄弟の長男でただ一人医者になり、台北市の太平町の医者、余先生の娘と結婚して一男三女をもうけました。その余先生の息子が余宗光先生で台湾大学病院の産婦人科医師、不思議な縁で私の長女のお産の時に「特別指定医師」として、お願いした先生でした。産婆さんの時代が産婦人科の先生へと移り変わる時代でしたから。

六十年代初期、李先生は慢性肝炎との噂さが町に流れ、皮膚の色黒いのはゴルフによる日焼けだと言う人もあったが、あのときから、李先生は毎日昼休みは三時間きっちり取り、戸に鍵を掛けて患者の侵入を防いでいました。その後、アメリカに来た娘を頼って渡米してロスLos Angelsに在住したと前日、南米はブラジルに住む私の末の姉さんと電話して知った次第です。あの頃、ブロッグの写真にあった淡水中学校長の陳泗智先生もロスにいて、さぞ皆で同卿会を楽しんだと思われます。同じ頃、周明徳さんも米国でしたが、首都ワシントンDCで東西両岸で三千マイルも離れていました。

ある時、帰国中の飛行機の上で偶然知りあった人に、淡水の李先生を知っているかと訊かれました。その人の妹が李先生の一人息子の結婚相手と知り狭い世の中だと感じたが、残念にも李先生の一人息子は父よりも先に亡くなったと知らされました。校長先生も亡くなった、余宗光先生も逝った、李先生も多分今では他界したと思う。誰も宇宙の流れには到底逆らうことが出来ない。何時か来る日は必ず来る。その日まで、毎日を精一杯に楽しく暮らしたいと願うのは私一人だけではない筈でしょう。』


2011年03月26日

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淡水、龍目井界隈の写真2葉

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淡水の龍目井辺りの写っている写真が2葉あったので較べてみた。

上の写真は1920年当時撮影されたもので、下の写真は1945年の航空写真である。
両者を見比べると、郵便局や長老派教会、偕医館など同じ建物も写っているが、小公園周辺の民家は以前のままのものに混じって建て替えられたものもある。

その後、公會堂の前を通っていた緩い坂道はまっすぐ引き直されて裏手を通るようになり、写真に見る地域も郵便局のような大きな木造建築はビルに建て替わって行った。

2011年03月27日

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淡水郵便局の建設される前の絵葉書

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当時、電信も扱っていた淡水郵便局の建物は当時としては大きかった。

しかし、それが建設される前の淡水港の絵葉書をウェブのページで見た(http://taipics.com/taipei_danshui.php)。

そこには同じ頃に撮影されたと思われる「淡水全景(其一):(杉田書店発行)」という絵葉書も掲載されている。

上の写真には淡水に入港中の旧式の4本煙突駆逐艦2隻が戎克(ジャンク)などの近くに係留中である。

淡水郵便局はこの絵葉書の写真の中央付近にあった筈であるが見当たらない。
きっとこのあと建設されたのであろう。

そして、その頃から河底の堆積が著しくなり外航船は基隆に入港するようになった。

その基隆も港湾が手狭になり現在、淡水の対岸八里の沖に大規模なコンテナヤードが建設されている。


2011年03月28日

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元の写真

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昨日掲載した絵葉書の元であろうと思われる写真を見つけた(http://tw.myblog.yahoo.com/tamsuitms/gallery)。

カラー写真のようであるが当時のことだからモノクロームの写真に着色して印刷されたものであろう。
建物などはこちらの方がわかりやすい。

昨日の絵葉書は文字を書く余白を作るためにトリミングされていた様である。

この写真を載せていたウェブサイトには淡水河を浚渫するバケット式浚渫船の写真も掲載されていた。


2011年03月29日

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淡水新店街通り

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27日に紹介したページ(http://taipics.com/taipei_danshui.php)に「淡水新店街通り:(杉田書店発行)」という絵葉書もあった。

まだ道幅も狭く、拡幅舗装される前の状態であろう。

手前の電柱の影から判断すると駅の方から河口の方を見た写真であろうか?

2011年03月30日

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台北捷運淡水線

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淡水に行くには台北捷運(MRT)が便利で快適である。

頻繁に走っているので時刻表がない。
その代わりに次の列車が何分で来るかが表示されているからである。

車体が大きく広い上に座席も充分確保されている。

シニア割引がある上、高齢者が立っていると座って喋っていた若者がごく自然に立って席を譲ってくれる。

1997年3月、木柵線全線開通の1周年記念日に淡水線も開通した。

将来計画ではMRT淡水車站から老街、紅毛城、古蹟園区、中崙、漁人碼頭、沙崙などに行く淡海LRTも敷設されるそうである。


2011年03月31日

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淡水和平公園

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ボストンの博士のウェブページに淡水和平公園の開園が掲載されている。

この公園はまもなく淡水世界和平公園として公開される。

一滴水記念館の傍らしい。


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