昭和初年のころ、台湾の新聞で「画伯」と呼ばれる四人の日本人画家がいた。
石川欽一郎、塩月善吉(桃甫)、木下源重郎(静涯) 、郷原藤一郎(古統) である。
石川は台湾総督府陸軍部通訳官として台湾に派遣された。同時に国語学校、後の台北師範学校の美術教師を兼務し促蒋懐、陳澄波、 藍蔭鼎、 陳植棋らの指導をしている。
塩月は台北高等学校、台北一中の美術教師として渡台したが台湾総督府美術展を創設、審査員を務めた。
木下源重郎はインド旅行の帰途病気になった友人に付き添って台湾に滞在し、この地が気に入って淡水に居を構え家族を呼び寄せて終戦で引き揚げるまでこの地の名士であった。木下静涯は教壇に立つことはなく家塾で教え、唯一内弟子としたのが蔡永氏であったと言う。着の身着のままで終戦の翌年、引揚船で北九州に帰国したが、静涯の収集品である六百点ちかい日本画が見つかったと2000年頃報じられていた。
郷原は台北一中、台北二中、台北第三高等女学校の図画教師を歴任していたという。
今日、この淡水会のブログを見て木下静涯画伯を尋ねているという人からメールが届いた。
少しでも役に立つことがあれば協力させて貰いたいと思う。