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2011年02月 アーカイブ

2011年02月01日

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公会堂(5) 淡水稲荷社

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臺灣總督府社會課の編集した「臺灣に於ける神社及宗教」によると、1906(明治39)年11月15日、臺北州淡水郡淡水街淡水字砲臺埔二八番地ノ一に淡水稲荷社が鎮座したという。
写真の背景に稲荷神社らしい鳥居が幾つか見える。

1930(昭和5)年4月に祖母が淡水街嘱託となって、1941(昭和16)年5月に退職するまで公会堂の管理を行いながらそこで料理や仕出しの営業を行っていたが、父のメモによると砲臺埔三八番地となっている。
私はここで生まれたのであるが、戸籍抄本によると臺北州淡水郡淡水街淡水字新店三七番地で生まれたことになっている。
(ちなみに、引き揚げ直前の住所は淡水街烽火十四となっている)

この稲荷神社に関しては洋館の裏にあったからか記憶にない。

なお、写真の左に立っているのが娘時代の母であり、祖母は右前に腰掛けている。
その間の家族は山口県岩国から台湾に来ていた山本忠治氏の一家である。

2011年02月02日

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公会堂(6) 稲荷社と淡水社

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昨日、公會堂の横にあった淡水稲荷社のことを載せたら、早速 CHMさんが地図を送ってくれた。

公會堂の敷地の右に、ほぼ同じ規模の「神社地塊」があり、そこに稲荷社と淡水社が描かれている。

いずれも社殿だけでなく社殿の正面に鳥居、向かって右手に手水場があり、淡水社には一対の灯籠も描かれている。

「公會堂地塊」の方は何も描かれていないので稲荷社鎮座(1906年)のあと、公會堂落成(1928年)以前の配置図であろう。

この配置図で見る限り淡水社に較べて、稲荷社の方がずっと立派に見える。
日本統治が始まって100年を記念して編集された特別展覧会資料によれば、淡水社は1923年に造られたという。

推測であるが、1939年に油車口に淡水神社が造営されるまでの仮の祠ではなかったのではなかろうか?

両親は同年5月20日に台湾神社で結婚式を行ったが、もし淡水神社が出来上がるのが早かったら淡水神社で挙式していたことであろう。

2011年02月03日

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淡水神社(1) 御用材奉仕

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油車口の砲臺の傍に淡水神社が造営されることになった。
街中の行事として社殿に用いられる材木を御用材として現地に運ぶときの様子が写真に残っている。

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これは上の写真の中央部を切り出したものである。
台の上でメガホンでかけ声を掛けているのが私の父 廣川研一で、その隣で日の丸の扇をかざしているのが淡水公学校教師の丹羽武雄氏である。
木下静涯画伯は左端で太鼓の横で白い帽子を被り脚にゲートルを巻いて手を打っている。太鼓を打っているのは父の佐賀同郷の親友であったが引揚後しばらくして交通事故で亡くなったそうだ。
台車の前で日の丸の鉢巻きをしてカメラの方に視線を送っているのが資生堂の主人である広瀬氏でその二人前、帽子を被って首に汗ふきを巻き付けているのが淡水小学校の水田校長である。


2011年02月04日

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淡水神社(2) 1939年鎮座

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淡水神社は1936(昭和10)年に造営が開始され、1939(昭和14)年3月11日に竣工、鎮座式が挙行された。
所在地は台湾台北州淡水郡淡水街油車口字油車口(現:新北市淡水区中正路1段6巷31號)、主祭神は北白川宮能久親王、明治天皇、大物主命、崇徳天皇である。

神殿、拝殿、回廊、手水場、灯籠、狛犬、鳥居を備えた純日本式神社であった。

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この写真は鎮座式か何かの記念写真であろう。
小笠原清禧宮司を中心に郡守、街長、署長、郡視学、各校長や教師が烏帽子姿で写っている(後列左寄りに父や教師仲間であった小栗兄弟、中島走氏など)。


2011年02月05日

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淡水神社(3) 祭礼

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油車口の河岸道路から参道が作られ、大鳥居と一対の石灯籠が設置された。

参道に沿って小型の石灯籠が並んでいるのが見える。

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これは父に連れられて初めて詣でたときの写真であろう。
御輿や俵揉みなど街中で祝ったものである。

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娘さんたちもそのお母さんたちもお祭りに参加した。
芸者さんの前には男衆も着物を着て菅笠を被り扇子を手にして写っている。

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勿論、街の名士の一人であった公会堂の小母さん、原田ユク(右)も参加している。
背後には黒紋付きを着た人たちが見えるので行事の終わったあとであろう。

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これは大鳥居脇の石灯籠の横で撮ったものである。
原田ユクさんの人生で最も華やかな時期であったにちがいない。

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私は毎年、父に連れられて淡水神社に参詣していた。
毎年、法被を着ていたのは覚えている。
祖母が縫い直してくれたのであろう。


2011年02月06日

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大曲

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東風江水を吹き
花開いて顔色を照らす
相思えども人未だ帰らず
日暮 上に立つ

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大曲     汪中

汪中は清代の儒学者で、字は容甫(1744−1794年)。

2011年02月07日

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友愛会誌11号

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台北市で発行されている友愛会誌11号が手許に届いた。

台湾の日本語族の会誌である。

11号は350ページを越える厚みで、表紙の写真は台北植物園の蓮花である。

何処かのハトが変なことを口走ってからちょっと誤解を招くおそれがあるが、この誌名は創刊以来のものである。

2011年02月08日

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夕陽の淡水河畔

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父と子の競い釣る背を惜しむなく
	夕日が包む淡水河畔

       王正子


2011年02月09日

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赤き雪洞

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大屯山の奥の尼寺 勤行の
	夕べは赤き雪洞が点く

       三村昌弘


2011年02月10日

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淡水燈塔

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淡水の街から河口の方に淡水燈塔が見える。
油車口より先だから竹子林になるのだろうか?

ここにかつて白砲臺があったとは知らなかった。

同治時代(1862−1874)に中崙砲臺を築き直して白砲臺を建造したという。

1884年の清仏(清法)戰争のあと砲臺は取り壊され1888年に燈塔が設置された。

鉄塔の上に設置された燈標なので燈台ではなく燈塔である。


2011年02月11日

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萬善堂

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司馬遼太郎著「台湾紀行」の鬼(クイ)の項に萬善堂が紹介されている。

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正月にきたとき、山村の道をくだるマイクロバスのなかで、蔡焜燦氏が、ふとつぶやいた。「台湾には、どんな小さな田舎にも、萬善堂という祠があります」
そう言ってから、あれもそうです、と窓外を指した。
惜しいことに、バスは行き過ぎた。
ともかくも、萬善堂という名前が気に入ってしまった。
善とは供養をし、功徳をつむ、ということかと思える。
萬とは、不特定の霊たちということだろう。
萬善堂とは、台湾の心そのもののように思えてくる。
「ゆきだおれの人の骨をあつめて供養するお堂です」と、『老台北』なら、朗々乎と言うところだが、なま身の蔡焜燦氏となると、書斎にいる人のように物静かになる。
氏の話では、山中で旅人の屍体が朽ちていたりすると、村人たちは村の萬善堂におさめ、僧や道士をよんで鄭重に供養する、といった。
(中略)
「まことに手厚くお祀りします」
と、しずかに言う。ふと、蔡焜燦氏がいう萬善堂は殷の遺風ではないかと思った。

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この話は読んで知っていた。
しかし、山深い里の話と思っていた。

淡水の「文化古蹟巡禮地図」を見ると滬尾砲台の裏通りにもあると写真入りで紹介されていた。


2011年02月12日

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日の丸

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日の丸の紅の色雪に映え
	いと美はしく又懐かしく

       江 恵 蓮


ブログ「台湾魂と日本精神」(http://twnyamayuri.blog76.fc2.com)の
「日本の建国を偲ぶ台湾人の短歌」から転載

2011年02月13日

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杜聡明博士

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今日、カリフォルニアのLCさんからファイルを送って貰った。

淡水国小創立百周年記念式典で表彰された杜聡明博士の話である。

「台日交流秘話:植民地時代の阿片政策功労者・杜聡明博士
 −北投石発見者 岡本博士との温かいきずな−」と題する15千字の記事である。

一気に読み終えた。

杜博士は台湾出身で初めて医学博士号を授与された方である。

淡水公学校→淡水国小で表彰された5人のうち、筆頭が杜博士で、第二位が李登輝博士、第三位が著者の周明徳氏、第四位はプロゴルファの陳清水氏、第五位は滋善事業家の施乾氏である。

このなかで北投の善光寺には岡本博士の顕彰碑が建っていることを知った。

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[著者:周明徳氏(気象技官)」


2011年02月14日

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淡水国小の伝統

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淡水国小は1896(明治29)年に淡水国語傳習所として創設された。
その後、滬尾公学校、淡水公学校、淡水国小と名称の変更を重ねながら今年で115年を迎える。

杜聡明博士や李登輝博士など幾多の著名な卒業生を輩出している。

驚くべきは、校歌も歌詞こそ漢字に読み替えられているが旋律は百年後もそのまま歌い継がれている。

また、同小学伝統の「ボート」の体操も今日まで引き継がれている。
校歌も「ボート」も記念誌などに掲載されている場合は日本語の歌詞まで添えられている。

伝統とはこうして引き継がれて行くものであろう。

嬉しい反面、日本の現状を見ると羨ましいとも思う。

2011年02月15日

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コンテナヤード

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淡江の対岸遠く眼で追えば
	八里の地先にコンテナヤード

       (詠み人知らず)


2011年02月16日

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零式水上観測機

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その昔 波を蹴立てて離水する
	水上機あり 懐かしき哉

       (詠み人知らず)


2011年02月17日

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河畔の建屋

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たらちねの母と仮寓せし二階館は
	貿易商の残せしと聞く

       (詠み人知らず)


2011年02月18日

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台湾の四画伯

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昭和初年のころ、台湾の新聞で「画伯」と呼ばれる四人の日本人画家がいた。
石川欽一郎、塩月善吉(桃甫)、木下源重郎(静涯) 、郷原藤一郎(古統) である。

石川は台湾総督府陸軍部通訳官として台湾に派遣された。同時に国語学校、後の台北師範学校の美術教師を兼務し促蒋懐、陳澄波、 藍蔭鼎、 陳植棋らの指導をしている。

塩月は台北高等学校、台北一中の美術教師として渡台したが台湾総督府美術展を創設、審査員を務めた。

木下源重郎はインド旅行の帰途病気になった友人に付き添って台湾に滞在し、この地が気に入って淡水に居を構え家族を呼び寄せて終戦で引き揚げるまでこの地の名士であった。木下静涯は教壇に立つことはなく家塾で教え、唯一内弟子としたのが蔡永氏であったと言う。着の身着のままで終戦の翌年、引揚船で北九州に帰国したが、静涯の収集品である六百点ちかい日本画が見つかったと2000年頃報じられていた。

郷原は台北一中、台北二中、台北第三高等女学校の図画教師を歴任していたという。

今日、この淡水会のブログを見て木下静涯画伯を尋ねているという人からメールが届いた。
少しでも役に立つことがあれば協力させて貰いたいと思う。


2011年02月19日

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淡水で零観に乗っていた人物

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2〜3日、前このブログに、幼い頃見ていた零式水上観測機を懐かしんで短歌を載せた。

まもなくカリフォルニアに住むLCさんからメールが届いた。

LCさんのご近所に淡水で、この「下駄履き飛行機」を操縦していた人が居るという。
LCさんとは40年越しの友人であるという。驚いた。

淡水河で離着水する水上機はよく見ていたが、(一度、郵便局の裏で水中から事故機を引き揚げるのを見たことがある)最近まで水上機の基地がスロープや駐機場までそのまま残っていたことを知らなかった。

漁人碼頭のようなところにするために最近再開発のため埋め立て工事が始まったとボストンの博士が写真で知らせてくれた。

淡水でこの水上機を操縦していた人はアメリカ生まれの2世で、たまたま帰国していたときに開戦となり海軍飛行兵となったという。

LCさんはボストンの博士や私と同じ淡水生まれで、ブログを介して知り合った。
とてもありがたい友人である。

写真は1993年に(株)文林堂から発行された「日本海軍機全集」に掲載された橋本喜久男氏の描いたイラストである。

2011年02月20日

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龍目井の家

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両親が結婚してからのことを両親が書き残してくれたメモから転記する(父の原稿を母がペンで謄写版刷りの原稿用紙に書いたものである)。

『最初、黒川さん(註:淡水新店街で塩屋を営んでいた)の2階に住んでいたが、三間あり、広廊下あり、ベランダありで、とても住み心地のよい家であったが、お産が近くなってからは、ばあちゃんの公会堂に来ていた。暫くして龍目井の丹羽さんの家が空いたので、そこにうつった。郵便局の近くで、裏口からは、同僚の安武さんの家の裏口に通じていた。窓側にかけひをかけ、縁先に四角な水槽を構えて、金魚を飼っていた。』

幼い記憶では表通りではなく路地に入ったところで玄関の前は狭かったが、玄関脇には虎の尾や竜舌蘭が植えてあった。

そんなところなので家の写真は残っておらず、引き揚げてから教え子の人(呂添得氏?)から2、3回「先生の宿舎」という写真を送って貰っている。
その写真も表通りから家の裏を見たもので、直感的に隣か先隣の家であろうと思っている。いずれにしてもこの一角は戦後立て替えられているので昔の家は残っていないが、このすぐ近くであったことは間違いない。

上の写真は、その家で生まれた妹の宮参りのときの写真である。
大東亜戦争開戦一周年記念日に生まれたので戦時色が窺える。

玄関には正月のしめ縄が見え、手前には虎の尾が見える。

下の写真は龍目井の家の玄関先で撮った淡水神社祭礼の法被を着た写真である。

上の写真には玄関のスライドドアのガラスが割れたとき飛散しないように内側から紙テープが貼られているが、下の写真にはそれがないのでその前年の秋祭りのときのものであろう。

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背景に虎の尾と竜舌蘭が見える。

[2月21日追記]
写真の左下隅にスタンプがあることに気がついた。

「李玉(Giyokurin Studio TANSUI)」と読める。
当時の淡水の写真館であろうか?

2011年02月21日

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馬公防備隊

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馬公は台湾海峡にある澎湖諸島の主街である。

我が家には馬公防備隊の水兵の写真が幾つかある。

三芝の先の富貴角燈台を見学に行ったこともあるが、幼児を抱いているのでおそらく淡水公會堂に来たときに撮ったものであろう。

水兵が私にセーラー帽を被せてくれているが、そのセーラー帽のペナント(所属をあらわすリボン)に馬公防備隊とある。

戦前は艦艇に乗り込んでいる場合にはその艦名が、陸上勤務の場合は所属部隊名が一目で判るようになっていた。
開戦後、防諜のため所属表示を止めて一律に「日本帝国海軍」のような表記となった。

下士官に抱かれているのは淡水で店を営んでいた「資生堂」の広瀬 信さんの孫であるマリ子ちゃんである。

マリ子さんたちは引き揚げて浜松に住んでいたらしいが、いま消息はわからない。

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こちらの写真はもう少し前のものであるが、水兵帽には同じく「馬公防備隊」のペナントが巻かれている。

こうしてみると馬公防備隊の海軍さんたちがときおり淡水公會堂に来ていたのであろうか?


2011年02月22日

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両親の残してくれたメモから

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一昨日に引き続き、両親の書き残してくれたメモから

『・・・
夏になると浅野のおばあちゃんが居る海水浴場に自転車の前の荷台に乗せて連れて行った。
奇麗な遠浅で、緑色の小さな海水着に、黄色のひよこが三匹ついたのを着て、はしゃぎ廻って遊んだものである。
誰かの赤い小学生の運動帽にあごひもを付けてもらって、自転車で行くのであるが、帰りは、きまって油車口か、淡水神社の辺まで来ると、つぶれて、ハンドルにもたれて寝て帰ったものである。
・・・』


2011年02月23日

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見下ろせば

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夕映えの関渡橋上 見下ろせば
	淡水河口にジャンク跡絶つ

       葉 顕 鎧


2011年02月24日

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赤き花

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赤き花 天堂鳥につくり呉れ
	極楽に舞ふ「淡水」の夢

       今里 玲子


2011年02月25日

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「台湾に渡った日本の神々」を調査

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「公會堂(5):淡水稲荷社」にコメントを貰った。

日本統治時代に建立された多くの神社の遺跡を調べている人が居て、『台湾に渡った日本の神々(http://blog.goo.ne.jp/jinjya_taiwan)』というウェブページが開設されている。
「初めて、淡水稲荷社の写真を見て感激しました。」とあり、近い将来この場所を見に行くそうである。

一週間前には関西から木下静涯画伯のことを知りたいとメールを貰い、淡水河を発着していた水上機の写真を載せるとカリフォルニアのLCさんから操縦していた人をよく知っているとメールが届いた。

つくづくインターネットの恩恵を感じる今日この頃である。

2011年02月26日

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世界平和公園

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淡水に行っているボストンのドクターからメールが入った。

淡水区(淡水鎮の新呼称)の区長に逢って「淡水会」のこともお話ししたようである。

戦前 淡水神社のあったところに近く有名なゴルフ場があるが、その近くに世界平和を祈念する世界平和公園を建設する話が出ているという。

2011年02月27日

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淡水河の落陽

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茜さす淡水河の落陽は
     河面も舟も人も染めたり

       詠み人知らず


2011年02月28日

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総督府直轄の国語傳習所

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1896(明治29)年5月21日に公布された総督府の法令により滬尾日語傳習所が設立された。
そのとき臺灣に設立された日語傳習所は淡水の滬尾のほか台北、基隆、新竹、宜蘭、彰化(台中)、鹿港、苗栗、雲林、台南、嘉義、鳳山、恒春、媽宮城(澎湖島)の計14箇所であった。
滬尾日語傳習所は2年後に滬尾公学校と改められ、1912(大正2)年に淡水公学校と改名されている。

写真は淡水国小90周年記念誌に掲載されている1899年当時の滬尾公学校の校門、玄関である。

最後の日本人校長であった松田常己氏の後任として校長となった洪炳南氏は、横浜在住の呉さんの祖父であり、その4代後任の陳淑女女史には私もお目に掛かったが、女史も呉さんの叔母さんにあたると聞いた。


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