公会堂の近くに街長の官舎があった。
当時の街長は中原 薫氏であった。
裏手には淡水女子公学校と淡水小学校があった。一般に本島人の子女が公学校に通い、内知人の子女が小学校に通ったように言われているがこれは正確ではない。
家庭内で日本語を常用している家族の子女は少数ではあるが小学校に通学していた。
しかし、家庭で台湾語を話している家では、日本語で行われる授業について行けない者もいるため、公学校で日本語だけでなく日本的な風俗・習慣などを含めた教育が行われていた。
淡水公学校(男子校)はちょっと離れていたが、公会堂では独身教員がここに寄って食事をしていた。
本館の左奥が管理人の住居で、表は広間で撞球場があった。
右端に小部屋が2つあり、そこで食事をしていたという。
奥は賄いであった。
二階広縁の眺めが格別であった。