淡水からの年賀
元旦に 海を隔てて 携帯に
年賀の挨拶 受ける嬉しさ
(詠み人知らず)
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「寒梅の詩」:新島 襄
庭上の一寒梅
笑って風雪を侵して開く
争わずまた、力めず
自ら百花の魁を占む
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この詩は同志社大学で大学歌、校歌とともに歌い継がれているという。
「国破れて山河あり」:杜甫
国破れて山河あり
城春にして草木深し
時に感じては花にも涙を濺ぎ
別れを恨んで鳥にも心を驚かす
烽火三月に連なり
家書萬金に抵る
白頭掻けば更に短く
渾て簪に勝えざらんと欲す
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これは 昨年帰淡したときに淡水在住の方が吟じてくれた詩である。
朗々とした吟詠であった。
戦前、小公園と呼んでいた一角に陶笛屋がある。
昨年9月に行ったときにはシャッターを降ろし休業していたが、その前年3月に行ったときは営業していた。
色々な陶笛があり、とてもきれいだったので店員さんにことわって写真を撮らせて貰った。
水牛の形をした陶笛を買うと解説付きの楽譜をくれた。
台湾の曲だけでなく日本の曲も、欧米の曲もたくさん載っていた。
そのときは、そのすぐ近くに幼い頃自分たちが住んでいたとは知らなかった。
1月15日は小正月であり、近畿地方ではいまでもこの日までを松の内としているようである。
もともと正月1日を大正月と言い、その月の望の日(満月:旧暦1月15日)を小正月と言っていた名残らしい。
昔は元服の儀を小正月に行っていたと言われ、これにちなんで1月15日が「成人の日」として国民の祝日になっていた。
2000年の法律改悪により1月第2月曜日に変更された。
鹿児島では先週「菜の花マラソン」が行われたというのに、当地では今朝の最低気温が零下4℃、最高気温も1℃前後である。
朝から断続的に粉雪が舞っている。
父の色紙から菜の花を探し出した。
先日、伊豆の下田で水仙が咲いているというニューズがあった。
淡路島の灘黒岩水仙郷、立川水仙郷や福井県丹生郡越前町など、海に突き出した岬で数百万本の水仙が咲いており、沖を通る船にその香りが届くという。
一番寒い時期に咲く花である。
春さむき江波に酒のみ
酢につけた生きたしらうを食いにけるかも
憲吉
中村憲吉は広島県三次出身のアララギ派歌人である。
伊藤左千夫に師事し、斎藤茂吉などと交流を持っていた。
江波は広島三角州地先の漁師町であった。
この短歌は、江波でこの季節にしか喰えないしらうおを肴に酒を飲んだとき詠んだものである。
私が江波の造船所に通勤していた頃は「山文」というしらうおの躍り食いを喰わせる料理屋があった。
淡水河右岸の道路は河口の海水浴場の方から小公園を経て街の南東端の停車場の方へ延びていたが、領事館入り口のあたりで少し山側に上る道が分かれていた。
その登り坂の道は小高い丘に遮られるように右に迂回して引かれていた。
その小さな丘には稲荷神社(淡水稲荷社)が設けられており、その横に公会堂が建っていた。
本館は二階建ての日本建築で、向かって右側(稲荷社側)に煉瓦積みの洋館があった。
公会堂は商社や台湾銀行の支店や税関など社会文化活動を行っていた淡水倶楽部によって建設されたが、海水浴場と同じように淡水街の施設になっていた。
街の嘱託となって公会堂を管理していた原田ユクは、日本人の板前や台湾のコックを雇って宴会や仕出しを行っていた。
結婚披露宴も行われていた。日本料理の場合は本館の座敷で、台湾料理のときの宴席は洋館で行われていた。
両親は台湾神社で挙式したが、披露宴は公会堂で行われた。
Kさんの両親も公会堂の洋館で行われた披露宴のあと内地に赴いたという。
本館の階下にはビリヤードの台があり、二階の正面は広く眺めの良い広縁になっていた。
公会堂の近くに街長の官舎があった。
当時の街長は中原 薫氏であった。
裏手には淡水女子公学校と淡水小学校があった。一般に本島人の子女が公学校に通い、内知人の子女が小学校に通ったように言われているがこれは正確ではない。
家庭内で日本語を常用している家族の子女は少数ではあるが小学校に通学していた。
しかし、家庭で台湾語を話している家では、日本語で行われる授業について行けない者もいるため、公学校で日本語だけでなく日本的な風俗・習慣などを含めた教育が行われていた。
淡水公学校(男子校)はちょっと離れていたが、公会堂では独身教員がここに寄って食事をしていた。
本館の左奥が管理人の住居で、表は広間で撞球場があった。
右端に小部屋が2つあり、そこで食事をしていたという。
奥は賄いであった。
二階広縁の眺めが格別であった。
公会堂には内地から淡水への来訪者の宴会が開かれたり、宿泊したりしていた。
写真は2階の広縁で撮影した洋画家(帝展審査員)大久保作次郎(右端)である。
1938年10月に淡水を訪れたときのもので、このとき「南嶋薄暮」の対象である高砂族の取材を行っている。
作次郎47歳のことである。
公会堂の階下には撞球台があり、新聞・雑誌などもあり文字通り淡水街の文化センターのような存在であった。
淡水を訪れた高官も宿泊していた。
書や絵画の展示のほか、木下静涯画伯らは盆栽展もやっていたと言うから菊花や蘭なども展示されたのかもしれない。
少年野球の祝勝会や同窓会も洋館を背景にした写真が残されている。
この写真は洋館内部で撮影されたものであるが若い頃の母を囲んで、台北一高女の同窓会のあとの記念写真であろうか?