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2010年11月 アーカイブ

2010年11月01日

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淡水街長多田栄吉故居

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淡水縣立淡水古蹟博物館発行の「淡水旅遊地圖」はカラー刷りで中文版と日本語版がある。

旅行者に名所旧跡を案内する地図である。表は捷運淡水站から滬尾砲台までの範囲で観光ガイド地図があり、裏には淡水紅毛城など十数ヵ所の開設が載っている。

TamsuiTravelMap_2.jpg

この地図には淡水の寺廟や馬偕博士関連遺跡、淡江大學、登峰魚丸博物館、真理大學、
などが34箇所示されている。

その中の22番目に「淡水街長多田栄吉故居」というのがある。

Gaichokyuutaku_1.jpg

観光地図に載せているなら遺跡として多少とも整備されているのかと思えば今にも崩れ落ちそうな廃屋であった。
鳥井勝治、中原 薫、小副川猛など、当時の淡水街長には何人も就任しているが、多田栄吉氏がこの官舎最後の住人であったのだろうか?

BranchManager.jpg

淡水河沿いには台湾銀行淡水支店長の旧宅もそのまま残されていたが、これは遊旅地圖には載っていない。


2010年11月02日

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父のメモから(1)

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父が生前に書き残していたノートやシートが幾つか残っている。

その中から淡水公学校教員を中心に教育関係者の名前を挙げてみる。


淡水郡視学 寺内 佐藤

淡水公学校
松田常己 (校長)
三原宝映 (教頭)
柴山亀雄
丹羽武雄
中島 走
廣川研一
小栗鮮一郎
服部松明
山根信夫
矢野信次郎
今村利春
安武不二夫
近藤
張  田
朱 木 火
楊 経 緯
陳氏速英
大川内津代
松村八千代
沢登いその

淡水中学校長 有坂一世
淡水小学校長 伊之坂 水田
淡水女子公学校長 小石光彦

中武哲雄
千明
沢登
吉永
木村
中島一夫
前島建樹

◎註1:父が後年記憶を辿りながらメモしたものなので、
    間違いや脱落があればご教示願います。

◎註2:「三芝国小百年史」には分校創設以来の教職員名簿が
    就任・離任の日付けとともに掲載されているが
    「淡水国小九十年史」には校長以外は掲載されていない。


2010年11月03日

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淡水会の近況報告など

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去年の「淡水会」は愛媛県松山の道後温泉で行われたという。

出席者は12〜3名であったという。

今年は東京で開催された。

来年の「淡水会」は何処で開催されるのであろう?

福岡を希望する声もあったそうだ。

次回は参加するつもりである。

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「淡水会」は任意加入の親睦会で、引き揚げて結婚したした人の配偶者も会員になった。
私も父に同伴して参加したことがあったが、そのときも親と一緒に参加していた人がいた。
設立当初から会員であった人が高齢になり、長距離の移動や2泊以上の宿泊が難しくなることも考えられる。
そのときは息子や娘が代理出席することも、会員を継承することも出来る。
当時の淡水在住者に限定せず、縁者や希望者を誘って会員数を増やし、会の維持・発展をはかるべきであろう。

現に淡水在住の人も、台北に住む会員もいる。

そして仲間を世界に広げたいと言うのが私の願いである。

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次回の淡水会については決まり次第、ここでお知らせするつもりである。


2010年11月04日

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父のメモから(2)

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父のノートには「淡水街の名士たち(1938〜1946年頃)」とある。

但し、ここでは先に載せた教育関係者は松田校長一家を除いて省いている。

画伯 台展審査員 木下静涯 防衛団・救護班長 1987年5月
満百歳祝賀
雑貨店 「資生堂」 広瀬 信(ノブ)、マリ子

雑貨店 「東洋館」 野島

雑貨店「鬼頭商会」   鬼頭亀吉

郡守 狩野

視学 佐藤

警察署長 久保田

淡水東公 松田常己、サト、金子、ミヨ子
(淡水公学校が1941年4月1日に淡水東国民学校に改称されたことを示す?)

新聞記者 星 (陸軍少尉)
陸軍少尉 谷 善次
酒屋 庄 信雄 防衛団・警護班長
煙草屋 伊達一二三
塩屋 黒川
米穀商         伊良波(内地米を販売)

台銀淡水支店長 伊藤勝太郎
関口
富豪 中野金太郎
(淡水の土地や借家を持っていた)

いろは亭
神官 小笠原清禧
僧侶 荒 操天
パイロット 木村
文具店 多田 番頭:曽城
街長 中原(薫)
海水浴場 浅野タツ、伊代子


2010年11月05日

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淡水会会員分布状況

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淡水会の会員分布の傾向を眺めてみた。

住所欄が空白の人が一人いるが、それ以外を見ると
北海道、信越、北陸、沖縄に住んでいる人はいない。

東北地方: 1名
関東地方:41名
信越地方: 2名
東海地方: 7名
近畿地方: 9名
中国地方: 9名
四国地方: 4名
九州地方:41名
である。

都道府県別で多い順に挙げると
神奈川県:15名
福岡県: 13名
鹿児島県:13名
東京都: 10名
熊本県:  8名
埼玉県:  7名
千葉県:  5名
三重県:  5名
兵庫県:  4名
で、そのあとは大阪府、岡山県、山口県、長崎県、宮崎県が3名である。

淡水、台北など台湾在住会員は9名である。

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淡水会は任意加入団体でこの名簿に載ってない人も多い。
現に私の知っている範囲でも、淡水にいた人は市内に数名は居る。

2010年11月06日

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淡水会について思うこと(1)

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昨日の本欄で述べたように、淡水会員が多く住んでいる地方は九州と関東が最も多い。

都道府県別に列挙すると、神奈川県(15名)、福岡県(13名)、鹿児島県(13名)、東京都(10名)、熊本県(8名)、埼玉県(7名)、千葉県(5名)と、上位7位までが関東と九州である。

従って、国内の何処かで淡水会を開催しようとすると、多くの人が5時間もかけて新幹線(東京・博多間)に乗らなければならない。
国内の航空路を利用すればフライト時間は短いが、空港には半時間以上前に窓口に行かなければならない。
日本も狭いようで広い。

ところで国際線は最近、空路が大幅に拡充され 羽田・台北間の定期路線も開設された。東京から博多まで新幹線の所要時間より短時間で行き来できるようになった。

航空運賃は新幹線と違って季節変動が大きいので一概に論じることは出来ないが東京・博多間の新幹線料金とほぼ同レベルである。

昨年は松山(道後温泉)、今年は東京で行われた淡水会は来年も開催されることになっている。
そのときは、次回の淡水会を淡水で開催することを提案しようかと思っている。

そうすれば、孫さんたち淡水在住の会員も喜んで参加してくれると思う。

台湾では2010年12月25日から行政区画が変更され、淡水縣淡水街は新北市淡水区になるという。

ちなみに台北の松山空港は、主都の空港ながら福岡空港と同じくらい(いや、もっと)交通の便が良い。

空港ターミナルにMRT(地下鉄)駅があり、そこから改札を出ることなく淡水に直行出来る。

写真は、その松山空港である。

2010年11月07日

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淡水の思い出(1)

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淡水河は台北から台湾海峡に流れ出る大河である。

概史にも述べたように19世紀にはジャンクが台北の萬華()地区まで溯り、淡水河沿岸の貿易量は台湾随一であったという。
カリフォルニア(USA)に在住するCさんは淡水から萬華まで蒸気船が運航されていたという。

1897年には日本郵船が淡水・福州航路、淡水・香港航路を開設し、1899年には大阪商船も淡水・香港航路の運航を始めた。

淡水には税関もあったし水先人(パイロット)も住んでいた。

しかし、徐々に河床の堆積がすすみ、大きな中洲が出来て大型船の入港が困難になり、1909年頃航路は運休されることになった。

1940年代に、近所の何家族かで(サンパン)で中洲に蟹を採りに行ったことがある。

淡水河の低質は泥で、河岸にはマングローブの茂みがあった。

潮が引くとシオマネキ(潮招き)という片側だけ鋏の大きい蟹や、有明海のムツゴロウに似たハゼが這っていた。

その蟹を採って砕いて塩辛にするのである。

洋式のボートは進行方向に背を向けて座り、両手でオールを引いて進み、和船は横向きになって左舷船尾の艪を漕ぐが、(サンパン)は前向きに立って両手で櫂を押して進むのである。

大人が蟹を採っているあいだ、子供達は水溜まりに残された小魚やヤドカリを捕って遊んでいた。

2010年11月08日

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父のメモから(3:和製台湾語)

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このブログも開設して1週間になる。

「はじめに」で書いたように、少しずつでも情報の蓄積や橋渡しとなり、淡水に縁のある人たちの連絡や情報交換に役立つことができればと思って立ち上げたものである。
さっそく、クレゴーさんやCHMさんからメッセージを戴いた。

回顧録や思い出メモ、あるいは旅行記といった過去の事柄ばかりでなくこれを見てくれた人の交流の場になることが出来れば喜びである。

よく知らないが「淡水会」には会員資格や入会手続きなどないと思う。
淡水に縁があったり興味があって入会したい人がいればお知らせ下さい。

今回は父のメモから『和製台湾語』というページを見つけたので掲載してみた。

	ゴア		吾
	リー(ニー)	あなた
	ギナ		子供
	ラホヤ		大人
	チャー		食べる
	リム		飲む
	カットワ(ク?)大きい(アップイ)
	アパ		父
	アボァ		母
	タンコエ	冬瓜
	キムコエ	南瓜
	シーコエ	西瓜
	オンライ	パイン
	キンチョウ	バナナ
	レンム		黄色(果物?)
	ナップ		棕櫚?
	タオケイ	大将
	トウタウ	南京豆
	アイコン	眠る
	ホーラ		そうだ
	ピヤチュウ	酒
	ラオチュウ	老酒
	ビーチュウ	米酒
	ボヤキン	かまわない
	カッキン	急げ
	テーライ	持ってこい
	ホウチャー	おいしい
	トワチャー	人力車
	クリータウ	苦力頭

ほかにもビンタンなど聞き覚えのある言葉もあるがノートには載っていない。

読めない文字を無理に読んだものもあり、本来の意味と違うものも含まれていると思う。
ご指摘を戴くと有り難いのですが・・・

(挿絵は、父がもう台湾に行くことはあるまいと思っていた当時、思い出から描き出した淡水の街)

2010年11月09日

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淡水の思い出(2)

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幼い頃の思い出は本当に自分で見聞したことなのか、当時のことを懐かしんで両親や祖母が聞かせてくれたことなのか判然としないこともある。

バナナを皮ごと食べてしまったことは母が笑いながら話して聞かせてくれたことであるが、公会堂の前に立っていた木瓜(モッカ・ボッコエ:パパイヤ)が食べ頃に熟れて種をとってもらってスプーンで食べたのは覚えている。

当時、露天の店先には短く切った砂糖黍や、実の付いた龍眼の枝先を束ねたものを売っていた。

南京豆売りが「トータウよ、ナンキンマメよ」と大声で売り歩き、新聞紙をコーン状に丸めてはかり売りしていた。

夕方には按摩さんが笛を吹きながら街を歩き、「按摩さん!」と声が掛かると呼ばれた家に上がり、肩や腰を揉んでいた。

祖母や母の話では、もう床についていた夜中に按摩さんが寝室に「おばあさん、按摩揉みましょうか?」といって入ってきたと言うのである。

夜も雨戸を閉てることなどなかった「古き良き時代」の話である。

2010年11月10日

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観音山

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淡水河の対岸に形の良い山がある。
観音山である。

淡水の街のどこからでも見える。

木下静涯画伯もよく描いていた。

2010年9月に淡水国小を訪ねたときに案内してもらった林元紅校長は
「私は教師に『観音山のような先生になりなさい』といつも言っているのです」と
言っていた。

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これは淡水国小を訪れる前に鎮公所の窓越しに撮った写真である。

戦前あった大きな中洲はなくなっていたが、観音山の姿は今も変わらない。


2010年11月11日

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夕陽の美しい淡水

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淡水の夕陽は美しい。

沢山の人たちがこの一刻を楽しんでいる。

観音山の右裾の河面を金色に染めて太陽は台湾海峡に輝く。

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河岸に腰掛けて黙って座っているペアもいる。

対岸やフィッシャーマンズワーフから連絡船が帰ってくる。

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ガジュマルの大木の下にはMRTで訪れた人が歩いている。

もうすぐこの先の燈台に灯がともる。

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淡水駅の向こうには紅樹林が広がっている。

潮が引くと漁船は河床に座り、流されてやせた砂洲が姿をあらわす。

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駅前広場では二胡で日本のはやり歌が演奏されていた。


2010年11月12日

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滬尾砲台

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淡水街の河口よりの油車口から少し登ると、有名な台湾高爾夫倶楽部(台湾ゴルフクラブ)がある。

1919年に台湾に最初に設立されたゴルフクラブである。
地元の人は淡水球埔と呼ばれていた。

古蹟めぐりのバスに乗ると、このゴルフクラブの入り口まで連れて行ってくれる。

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そのゴルフクラブの入り口左手に小さな受付がある。
「滬尾砲台」の受付である。

その前に行くまで何があるのか判らなかった。

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その左手奥に古い砦が見えた。

滬尾砲台である。

「北門鎖」とある。

1883年に清国とフランスの間に戦があり、一時この辺りまでフランスの陸戦隊が上陸してきたことがある。

海防の必要性を認識した清国は、ドイツの工兵大尉マックス E ヘヒトを招聘して淡水河口に砲台を構築した。
それがこの滬尾砲台である。

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今は博物館になっており、精巧な模型が設置されていた。

四周に12インチ/10インチのカノン砲や21センチ榴弾砲などが配置され、内部には弾薬庫や兵舎が設けられていた。

いま、その居住区であった隧道の中は展示室になっている。

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竣工当時の淡水神社や、マッカイ博士ご一家の写真、それに当時の淡水駅の炭水補給風景など多くの写真が解説つきで展示されている。

その中には「淡中全校李姓一同記念」写真に写っている学生時代の李登輝氏の写真もあった。

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当時の弾薬庫もそのまま保全されていた。

中年の穏やかそうな学芸員が我々を案内してくれた。

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営庭には家族連れの見学者も見えた。

この砲台は幸いにして実戦に使用されることはなく、設計・構築の責任者であったドイツ人工兵大尉は淡水の外人墓地に眠っている。

ここを見学して一番の収穫は、淡水公会堂など当時の写真に巡り会えたことである。


2010年11月13日

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おぼろげな記憶

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公会堂から龍目井に引っ越したあと、三芝に転勤になった。
私の幼い頃の記憶では、家族が引き揚げ前に住んでいたのは英国領事館の近くであった。
英国領事館のあとは現在、隣接している紅毛城の古蹟に含まれている。

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引揚後に現地から送って貰った写真のなかに「1987/5/1、旧淡水小学校校長宿舎付近」とメモされたものがある。

人物は送ってくれた呂添得氏であろう。

小学校長の宿舎であろうと思われる塀から幹線道路まで下り坂になっている。

このすぐ上に真理大學の礼拝堂があり、1995年に訪れたときにはドレスを着た人をフォトスタジオのスタッフが撮影していた。

そして下り坂を降りたところは区画整理され現在何も建っていない。

幼児の頃の記憶だけでは心許ないので、以前から何か手掛かりがないかと捜していた。

ところが最近、ボストンの博士から戦前の写真を載せたウェブページのURL(http://tw.myblog.yahoo.com/tamsuitms/)を教えてもらった。

そこには公会堂やその周辺の写真とともにこの坂の様子の判る写真が載っていた。

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これは工事中の坂道の途中から見下ろした写真である。

そして下の写真は河岸側から同じ場所を見上げたものである。

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微かな記憶ではこの正面に建っている家の位置あたりではないかと思う。

すぐそばの生け垣をくぐって領事館の庭に入ったような気もする。

我々の住んでいた宿舎は淡水に土地や建物を持っていた富豪、中野金太郎氏の所有であったという。

終戦になり、父もここに復員してきた。

その頃の記憶では、家の前で遊んでいて道路に転がり出たボールを国府軍の兵士が拾ったのでどうしようかと思ったが、父が出て行くとその制服がニコニコして返してくれたことがあった。

すっかり忘れたと思ったことを想い出すこともあるものである。

2010年11月14日

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淡水会について思うこと(2)

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一週間ほど前の本欄で、淡水会を淡水で行うことを提案した。
きょうはもう少し具体的な提案が出来ないか検討してみる。

会員は全国各地に住んでいるので、団体旅行としての集合場所は羽田空港にするのが良いであろう。
集合場所までの移動も旅行会社で手配してくれる。

現在、羽田・台北(松山)便は、日本航空・全日空・エヴァー・チャイナエアの4社がそれぞれ2往復ずつ合計8往復運航されている。

羽田から松山空港までの飛行時間は3〜4時間程度なので、ここで集まることを考えると羽田出発は午後遅い方が良い。
松山空港から淡水まではマイクロバスで移動し、その日は淡水のホテルで宿泊となる。

2日目はメインイベントである淡水会総会であるが、出来れば宿泊したホテルで懐かしい淡水の人たちを交えて開催することになるであろう。

当然、3日目は昔のままの街並みやすっかり様変わりした淡水の街を見て歩くことになるが、それぞれ訪ねたいところも違うであろうし自由行動になると思われるが希望者があればマイクロバスを使って現地の人に案内して貰ってもよい。

その日も淡水に宿泊して帰途につくことにすれば3泊4日で里帰り淡水会が実施できる。
勿論、この際淡水以外を観光したい向きにはオプションで延泊してもらうことも可能であろう。

日本から行く人数が10名、現地参加の人が10名くらいは集まるのではないだろうか?
機会を見つけて皆さんの意見を伺いたいと思っている。


2010年11月15日

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水上機場

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臺北縣立淡水古蹟博物館発行の淡水トラベルマップには、地図上に番号を付けて古蹟や観光ポイントが示されている。

その第一番が「淡水水上機場」である。

MRT淡水駅のそばで、竹圍から広がっているマングローブ(紅樹林)が途切れる辺りの河辺である。

ここには1940年前後に台湾で最初の水上機の飛行場で、民間にも開放されていた。

1940年11月には大日本航空の川西式大型飛行艇「綾波(J−BFOZ)」がパラオ・淡水間航空路開拓のため、横浜・サイパン・パラオ・淡水・横浜(距離:9237キロメートル)を飛行時間37時間12分で飛んだこともある。

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民間定期空路が開設されることはなかったが、海軍の九七式輸送艇がシンガポールや香港から要人を乗せて飛来することはあった。

カリフォルニア在住のLCさんは飛来した飛行艇を見学に行ったことがあると教えてくれた。

いつも飛んでいたのは数機の零式水上観測機であった。

河面を切り裂くように長い航跡を残して離水し、しばらくすると同じように着水していた。

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街の人は何処に引き上げられ、何処で整備されて、何処に駐機していたのか知る人は殆ど居なかった。

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父が数十年後に当時を想い出して描いた地図にも駅から市場や街役場近くの水面に「水上機基地」と記している。

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1945年に台湾に駐留した米軍が作成した地図にははっきりスリップウェイと5機程度の駐機スペースが描かれている。

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インターネットでグーグルの航空写真を見ればスリップウェイから駐機スペースまで台車に載せて移動した誘導路はそのまま道路として利用されているようである。

何時だったか郵便局前面の川に零式水上観測機が事故で沈み、裸になった水兵が潜ってロープを掛け引き上げたのを間近で見た覚えがある。


2010年11月16日

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海水浴場

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2009年淡水古蹟博物館4周年館慶特別展示に関連して発行された「滬道日安」によると「1923年、天然の海浜に開かれた海水浴場は、淡水街の沙崙にあり、駅から3.3キロの距離だった。当時の海水浴場は街役場が経営しており、販売部、ホテル、旅館、汽車とバスの往復割引切符などの方法で人々を集めていた。」とある。

さらに「当時は毎年の開放的期間が6月から9月までで、台湾総督府鉄道部はこの期間内に、2割引の優待往復切符を売り出し、また列車を増発した。駅から海水浴場まではバスがあり、観光客の便を図っていた。そのため毎年この時期には都会から多くの観光客を集め、青年学生たちは各種の活動を行い、自から「水泳隊」を組織して水泳訓練をしていた。台湾鳥瞰図などの古地図上では、明らかに1930年代の時期、台湾島内に多くの海水浴場があったことが見て取れる。たとえば基隆大沙湾、八里、澳底、蘇澳、竹圍、竹南、通宵、苑裡、大安港、大甲、安平、西子湾、旗後などである。」と解説が続く。

税関吏を中心として地方官吏、台湾銀行、商社員、地方の有力者によって組織された「五十会倶楽部」は、台湾で初めてのゴルフ場や公會堂を開設したことは知っていたが海水浴場の開設にも関わっていたのである。

海水浴場「和樂園」の経営者、浅野タツは淡水公會堂の嘱託であった原田ユクの伯母であった。

私が広島市営アパートに住んでいたとき娘は未就学の幼女であった。
同じアパートに住んでいた女の子が娘をとても可愛がってくれ、ときどきそこにお邪魔して遊んでいた。

そこにしっかりしたお祖母さんが居たが、聞くところによると台湾で温泉宿を経営していたという。
温泉は冬場が忙しく、夏は比較的暇なので海水浴場「和樂園」に逗留していたというのである。
冬には海水浴場の浅野タツさんが温泉宿に行っていたという。

当時は台湾に行ける日が来るなど考えられなかったが、今となってはもっと話を聞いておけばよかったと思っている。

当時の話を聞いて不思議だったことがある。
淡水街で何かの式典があると、海水浴場の浅野タツさんや公會堂の原田ユクさんが招待されていたという話である。

海水浴場も公會堂も街役場が経営主体で、その経営を二人に委託していたのであれば納得できる。

戦時中は爆撃や銃撃の演習場になっていたそうで、戦後は荒れ果てていたという。

最近、淡水の観光スポットになっている漁人碼頭の一角になっているのであろう。

2010年11月17日

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淡水線(鉄道)

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戦前、淡水と台北との間に鉄道が敷設されていた。

1908年4月の基隆と打狗(現・高尾)を結ぶ台湾縦貫鉄道の開通に先立って1901年8月に開通した。

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台北駅から大正街、雙連、圓山、宮の下、士林、ロ其里岸、北投、江頭(現・関渡)、竹圍を経て淡水に至る。

1916年に北投から新北投線が営業を開始しているが、この年淡水線で脱線事故があり、列車が墜落した。このときは怪我人二十余名であった。
1932年には台風のため関渡・竹圍間で列車が転覆し、41名の人が溺れて亡くなっている。犠牲者の中には台北まで汽車通学をしていた学生も含まれている。

日本の鉄道唱歌は334番までありよく知られていたが、台湾にはこれに匹敵する「台湾周遊唱歌」というのがある。
この唱歌は90番まである。
当時まだ台東線や宜蘭線に鉄道が敷設されていなかったから周遊唱歌としたのだろうか?

この中には台北、圓山、士林、北投、江頭などと共に淡水を謳った歌詞があるので紹介する。

(17番)屋上高く ひるがえる 同盟国の旗じるし
 問わぬ先にも 知られたり 大英国の 領事館

(18番)三百年の その昔 万里の波を 凌ぎきて
 武威を振ひし イスパニア サンチャゴ城 此処に建つ

(19番)後にオランダ 来てりしが 鄭氏代わりて これに拠る
 栄枯はうつる 世のならひ 英雄のあと 今いずこ

(20番)楼に登りて 見渡せば 軸艪つらねて うち集う
 唐船の 数知らず 観音山下 画の如し

(21番)此処の港を 船出して 海路僅かに 二百余浬
 その日の中に 対岸の 厦門の港に 著かるべし

(片倉佳史著:「台湾鉄道と日本人」より)

鉄道のほか淡水と萬華を往復する蒸気船も運航されていたという。

2010年11月18日

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入会申し込み3名

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そろそろ年賀状の準備をする時期になってきた。

賀状を交換している人たちのなかにも、淡水に住んでいたが平成21年版淡水会名簿には掲載されていない人もいる。

機会があったら話してみよう。

とりあえず現在名簿に載っていないので私と娘、それに龍目井で生まれた妹を入会させて貰うように連絡することにした。

賀状やメール交換している知り合いにも入会を勧めようと思っている。

2010年11月19日

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三芝国民小學

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三芝は淡水鎮の北に隣接する集落(郷)で、当時は小基隆とも言っていたようである。

台湾で最初の医学博士である杜聡明博士や、台湾人として初めて総統となった李登輝博士の出身地である。

三芝国小の歴史を遡れば1911年に老梅公学校の小基隆分校として開設された。
そして翌年には小基隆公学校として独立し、老梅公学校は小基隆公学校の分校になった。1913年には北新庄分校が設けられたが老梅分校、北新庄分校は1921年にそれぞれ老梅公学校、北新庄公学校として独立した。
小基隆公学校は1941年に三芝国民学校と改称された。そして1945年に中島一夫校長から洪擧桂校長へ引き継がれている。


臺北縣三芝国民小學創校百周年記念特刊の巻末には老梅公学校の小基隆分校として設立されて以来の歴代教員の赴任離任年月日が載っている。
それによると1911年から1945年末までに108名の教員の氏名がここに在籍しそのなかに33名の日本人の名前がある。
その中の一人、山城安次郎氏は広島で開催された淡水会に娘さんと出席していたのでご挨拶した覚えがある。
髙鍬先生の名前はときどき母が話してくれた三芝のはなしの中で聞いたことがある。

当時の三芝は田舎であった。

国民学校のそばに教員の宿舎があった。

あたり一面の水田に蛍が乱舞していたのを覚えている。

勤労奉仕で母が稲刈りに行き怪我をしたこともあった。

近くに製パン工場があり、時間によって旨そうな香りが漂ってきた。

ミッセンを作る作業場もあった。ザボン(ブンタン/ボンタン)の皮を砂糖漬けにしたものである。

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いま、三芝国小は大きな学校になっている。
創設百周年を記念して立派な校史文物館が出来ていた。

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まわりは建物が建て込んでおり郵便局や警察の分駐所、郷公所などがあって賑わっており当時の面影を偲ぶことは出来ない。


2010年11月20日

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台湾航路の貨客船

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1991年7月に発行された「日本の客船[1]1868−1945:海人社刊、野間 恒・山田廸生共著」には台湾航路に就航した約30隻の貨客船の要目、航路、運航実績などが写真と共に掲載されている。

全部を紹介するスペースはないので船名、船主、総トン数、航路などを紹介する。

「須磨丸」大阪商船、1563トン、1896年5月に開設の大阪・台湾線に配船
「安平丸」大阪商船、1698トン、1897年4月に開設された神戸・沖縄・其隆航路に就航。
「基隆丸」大阪商船、1673トン、「安平丸」の2番船
「淡水丸」大阪商船、1674トン、「安平丸」の3番船
「臺北丸」大阪商船、3300トン、神戸・基隆線就航予定(回航途中遭難)
「臺中丸」大阪商船、3213トン、「臺北丸」の2番船
「臺南丸」大阪商船、3176トン、「臺北丸」の3番船
「宮島丸」大阪商船、1592トン、「須磨丸「明石丸」と組み、神戸・高雄間に月3回。
「明石丸」大阪商船、1571トン、1898年から神戸・高雄線に就航
「臺北丸」大阪商船、2794トン、1910年、横浜・神戸・基隆・高雄間に就航。
「臺東丸」大阪商船、1944トン、1901年、神戸・高雄線に就航
「吉野丸」近海郵船、8998トン、1921年、台湾航路に就航
「さくら丸」帝国海事協会、3205トン、1901年、門司・基隆間に就航(2昼夜)
「うめか香丸」帝国海事協会、3273トン、「さくら丸」の2番船
「桃園丸」大阪商船、3460トン、1915年、台湾航路(横浜・神戸・基隆・安平・高雄)
「宮古丸」大阪商船、1013トン、那覇・基隆、阪神・名瀬・那覇などに就航
「八重山丸」大阪商船、「宮古丸」の同型船
「中華丸」山下汽船、2191トン、内地・台湾、基隆・ハイフォン間に就航
「華南丸」山下汽船、2192トン、「中華丸」の2番船、内地・台湾線に就航
「大華丸」山下汽船、2197トン、「中華丸」の3番船、内地・台湾線に就航
「蓬莱丸」大阪商船、9192トン、1924年6月より神戸・基隆線に就航
「扶桑丸」大阪商船、8188トン、1924年から神戸・基隆線に就航
「高雄丸」大阪商船、4282トン、横浜・高雄線に就航、博多、鹿児島に寄港
「恒春丸」大阪商船、4271トン、「高雄丸」の2番船
「瑞穂丸」大阪商船、8511トン、1927年神戸・基隆線に就航
「大和丸」近海郵船、9655トン、1928年神戸・基隆線に就航
「吉野丸」近海郵船、「大和丸」の姉妹船
「朝日丸」近海郵船、8998トン、1928年台湾航路用に伊船を購入
「高千穂丸」大阪商船、8154トン、神戸・基隆線向けの新造船
「富士丸」近海郵船、9138トン、神戸・基隆線用新造船
「高砂丸」大阪商船、9315トン、「高千穂丸」の拡大改良型

1897年には日本郵船が淡水・福州航路、香港・淡水航路を開設し、1899年には大阪商船も淡水・香港航路を開設しているが、その頃から淡水河の堆積が著しくなり、大型船の入港は基隆にシフトしたものと思われる。


2010年11月21日

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詩吟と短歌

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淡水河の夕陽を思いつつ作ってみた。


「金色(こんじき)に染まりし河面(かわも)揺らしつつ
渡船は岸に 横付けむとす 」

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2010年9月29日に帰ったとき、淡水国小に楽しく賑やかな昼食をご馳走になった。
とても楽しい昼食会であった。

そしてその宴の終わるとき隣に座っていた 孫 秀(日本名:田中秀子)さんがカラオケや詩吟を教えていることを知りった。

私がそのことを聞くと、姿勢良く起立して漢詩を吟じてくれた。
「国破れて山河あり」である。

朗々とした吟詠であった。


「国破れて山河あり
 城春にして草木深し
 時に感じては花にも涙をそそぎ
 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
 烽火 三月に連なり
 家書 万金に低る
 白頭 掻けば更に短く
 渾て簪に勝えざらんと欲す」

席を立ちかけていた一同も、ウェイトレスも直立して聞き入っていた。

KGさんは人目も憚らず涙を拭っていた。

またこのような吟詠を聞きたいものである。

2010年11月22日

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スコール

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今日は朝から雨。
日本の雨はシトシトと小雨が続く。

台湾では梅雨のような雨はなく、晴天であっても急に驟雨となることがある。
そしてひとしきり降ったあとは青空が戻る。
だから台北のような都市では停仔脚は非常に便利である。
通り雨ならこれでやり過ごせる。

「降り続く驟雨に 榕樹へ雨宿り
	下がる気根は未だ濡れおらず」

2010年11月23日

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淡水鎮

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いま淡水に行っているボストンの博士が淡水の鎮長(街長)さんに淡水会の話を説明したそうです。

鎮長は淡水会のことをご存じなかったようですが、もし淡水会を現地でやることがあれば歓迎すると言っていたそうです。

とりあえず下松のFさんに相談してみようと思います。

もうすぐ台北縣淡水鎮は新北市淡水区になります。

2010年11月24日

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淡水の大学

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淡水には大学が2つある。

MRT淡水駅のそばから緩やかに上っている學府路に沿った淡江大學と紅毛城の近くの真理大學である。

何れも50年以上の歴史があり、真理大學はマッカイ博士の設立した牛津學堂の流れを汲むキリスト教系大學であり、淡江大學は総合大学でここには海事博物館もあるという。

是非訪ねてみたいものである。


2010年11月25日

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大屯山

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観音山が淡水河の対岸にあるのに対し、大屯山は淡水街の背後にある。

七星山などと共に陽明山国家公園を構成する高さ千メートル余の火山である。

淡水鎮と台北市北投区の境界線上にある。

この写真は沙崙子から大屯山を見たもので、その間にあるのがゴルフ場であるという。

いまでも台湾で最も有名なゴルフ場である。


2010年11月26日

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油車口

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油車口は淡水市街から河口の海水浴場の方向の地名である。

紅毛城から川下側の遠からぬところに「血清」があった。

更に行くと清仏(清法)戰争のあとに構築された滬尾砲台がある。
1939年頃その傍に淡水神社が建てられた。
河岸道路に面して石造の大鳥居があり、石灯籠があった。
そのそばにはグランドがあったらしい。

道路に沿ってもう少し行くと「無線」があり、河岸には当時から小さな燈台があった。

これも送って貰ったものであるが良い写真である。

自転車で菅笠の男が淡水の方に向かっており、河岸にはガードレールもない。
河原には漁りをする人影が見える。
小魚か蟹を採っているのだろうか、貝掘りをしているのだろうか?
淡水の蛤(ハマグリ)は旨い。
沖には中洲も見える。

幼い頃、父がよく自転車で海水浴場に連れて行ってくれたという。
いつも、油車口のあたりでハンドルにもたれて眠ってしまったらしい。

家に帰ると自転車に跨がったまま「おーい」と母を呼び、母が降ろしてくれたそうだ。

いま淡水神社のあったところは忠烈祠となっており、最近この近くに日本家屋が内地から移築されたという。


2010年11月27日

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小公園

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淡水駅から老街を行くと土産物屋や食料品市場が続くなかに鎮公所(街役場)がある。
それを過ぎてもう少し行くと、河岸に沿って川下に行く道と右手に緩やかな坂を登る道に分かれる。

その分岐のロータリーにあたる小さな植え込みのなかにマッカイ博士の頭像がある。

そこには戦前から小さな空間があった。

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河岸に沿った道に、直交した道が丁字に分岐していると言うよりも川上からの道と川下からの道が突き当たったところにそれと直交した道が集まった感じで、遠景にはどちらから見ても突き当たりのように正面は建物で塞がれたように見える。

そして川上からの道と川下からの道、それと直交した道を配管継手のように結んでいる本当に狭い空間であった。

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この航空写真の左上の一角に小さな三角のスペースがあるのがそれである。

当時ここを小公園と言っていた。

ここから川下に向かう道路と川に直交して緩やかな坂道との間に細い道があり、長老派教会へと導いている。

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この写真は大陸から国民政府が来てから、この通りを中正路と名付けたころのものである。
手前の「中正路」という標識の立っているところが小公園であり、その奥に教会へ通じる道が見える。

その両側の建物は現在も使われている。

左に見えるコンクリートの構造物は国府軍が設けた機関銃座である。

戦前、このあたりは龍目井と呼ばれていた。
2年半違いの妹はこの龍目井で生まれた。


2010年11月28日

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淡水礼拝堂

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淡水の歴史的建造物のひとつにキリスト教長老派の礼拝堂がある。

マッカイ博士の頭像のある交差点から中正路の裏道のような馬偕街という通りを入ったところである。

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淡水駅前から少し山手を通っている国道2号線(中山道)に沿って淡水文化センターがあり、淡水鎮の図書館がある。
この写真は川下側から見たものであるが文化センターの裏を中正路へ降りる下り坂の向こうに煉瓦色の教会が見える。

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これは数十年前に公会堂の前から撮った写真であるが左端に教会の尖塔が見える。

この写真で懐かしいのは公会堂の前にあったコンクリートの縁石がそのまま残っているところである(左下)。

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その下り坂の壁には壁画(?)が描かれている。

坂は右に曲がっているがその右奥の一角にはマッカイ博士が当初借りていた家が残っている。

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淡水の古蹟に指定されており、それを説明するパネルが表示されている。

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「馬偕博士租屋發跡地(馬偕街)」と写真入りの解説がある。

その前を通り過ぎると駐車場の向こうに礼拝堂が見える。

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外からも尖塔の美しいステンドグラスが見える。

ここから右はすぐ中正路である。教会の前を行くとマッカイ博士頭像の傍に出る。


2010年11月29日

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マングローブ(紅樹林)

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MRTの終着駅「淡水」の手前が「紅樹林」である。

紅樹林とはマングローブのことで、淡水河沿いにあるマングローブ保護地区のひとつである。

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紅樹林駅の傍に「紅樹林生態展示館」がある。

2008年1月に訪台したときにここを訪れると係員が館内をざっと説明したあと木道の入り口まで案内してくれた。

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立派な木道が設置されている。

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ヒルギが生え、蟹やムツゴロウのようなトビハゼが泥の上におり、水鳥がそれらを狙って歩き回っている。

このあたりに居る蟹は片方の手(はさみ)が大きく、これを振り上げる姿が潮を招いているようだにも見え、シオマネキという別名を貰っている。

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遊歩道の途中に置かれているベンチにもそれがデザインされている。

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これがマングローブを構成する植物で、ヒルギと呼ばれている。

葉の下に下がっているのが実で、その形から水筆という。

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先が尖っていて、泥質の川底に刺さって流出を防ぐのである。

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そうしてそれが芽を出しマングローブが維持される。

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このようにして紅樹林の自然保護区は保全されている。

木道は途中から自転車道に合流し「淡水」駅まで続いている。

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淡水駅の近くには杭上集落も残っている。
背後の建物は穀物などを扱っていた貿易商人の建てたものであろう。

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淡水駅の河岸は広い公園になっているが、そこにも根を下ろしていた。

沖に小さな洲が見えるが、戦前は小島のように大きかった。

土砂の堆積が著しく、明治末期には開設されていた淡水・厦門、淡水・福州航路も廃止を余儀なくされた。

2010年11月30日

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淡水海軍墓地

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父の描いた想い出の淡水地図には海軍墓地がある。

駅近くのライジングサン石油の山手の方向である。

実は公會堂の管理人をしていた原田ユクの弟である山本傳人(つたえ)も海軍墓地に隣接する公共墓地に眠っていたのである。

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戦後、この地に駐留した米軍が作成したと思われる地図にも、駅のさき水上機基地のあった山の手にかなり広い墓地が描かれている。

しかし、現在の地図では近くに山寺があり運動公園があり、この一帯は淡江大學の科学園区になっているらしい。

どうなってしまったのだろう?


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