2013年03月12日
都市の変遷
私は1947(昭和22)年以来、広島市に住んでいる。
1978(昭和53)年4月に現在地に転居するまでは30年余り基町で暮らしていた。
市街地の中心部で、何処へ行くにも便利だった。
1957年に、市民球場が出来てからはナイターの照明が自宅から見え、優勢なときは喚声で判ったものである。
しかし、戦前の基町は軍用地であり、歩兵・砲兵・輜重兵などの兵舎ばかりでなく練兵場も大本営跡もある官有地で、地名は基町一番地であった。
原子爆弾で木造建築ばかりか煉瓦建ての建造物も瓦礫となって、字義通りの焼け野原になった。
この写真の右上一帯が広島城を含む基町地区である。
1952(昭和27)年、公職選挙による最初の浜井信三市長のもとで、平和大通り(百メーター道路)を防災帯として都市計画が起案されたが、そのとき基町の東側を官庁街、西側を公園とすることが決められた。
しかし、旧市街地には瞬く間に不法建築が建ち並び、特に官有地であった基町は巨大なスラム街となった。
そして、頻繁に大火が起きた。
車の通れるような路はなく、消防車も近づけなかったので何度も大きな火事が起きた。
住民が「立ち退きに応じられなかったので、市が火をつけた。」と泣きわめきながら逃げていることもあった。
この写真で中層アパートの背後に見えるのは木造の市営住宅群である。
都市計画では公園緑地にするはずだったのであるが、基町地区には区画整備も出来ないまま市営住宅や県営住宅を建てざるを得なかった。
スラム街を解消するために、城南通りの北側にショッピングセンターや駐車場を含む高層アパート街が建設されることになった。
城南通りの南側に、市民球場やグリーンアリーナ、ファミリープール、図書館などの公共施設が設けられ、北側は中央公園として整備されることになった。
1949(昭和24)年、最初に基町に入居した新築白壁市営住宅のあった場所は中央公園の一角になり、転居する前に住んでいた鉄筋5階建ての17号館は現在もまだ建っている。
何のことはない、以前あった区画も道路もなかったことにされたのである。
朧気な記憶を辿りながら当時住んでいた一帯を思い出して地図に描いてみようと思う。
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