2009年12月28日
飛行船と航洋客船
- bremen
- 13:24
- カテゴリー:ブレーメンとオイローパ
フリードリッヒスハーフェンで建造中であった「LZ127」は、伯爵90回目の誕生日である1928年7月8日に「グラーフ・ツェッペリン」と命名され、9月18日に進空した。
これに先だって、1926年12月13日に、ハンブルクのブローム・ウント・フォス社の造船所で、翌14日にはブレーメンのデシマーク造船所でそれぞれ5万総トン級の建造契約が締結された。
一日違いで行われたのは船主、北ドイツ・ロイドの首脳陣が同じ日にハンブルクとブレーメンで契約式に出席できないからであった。
船台上で中央部船底外板を鋲締めする起工式は、並行する他工事との兼ね合いもあり、デシマーク社の方が早く1927年6月18日、ブローム・ウント・フォス社では7月23日に行われたが、建造中の構造物が船舶となる進水式はまたしても一日違いで挙行された。
ブローム・ウント・フォス社ハンブルク造船所では1928年8月15日に、駐独米大使ヤコブ・グールド・シュアマンが479番船を「オイローパ」と命名して支綱切断し、デシマーク社のブレーメン造船所では大統領ヒンデンブルクが872番船を「ブレーメン」と命名して進水させたのである。
一日違いで建造契約を取り交わし、一日違いで進水したスーパーライナー2隻は同時に処女航海に出航する計画であった。
しかし、艤装岩壁で内装工事を行っていた「オイローパ」から出火し、完成が大幅に遅れてしまい、1929年7月16日に「ブレーメン」が単独で処女航海に出航した。
この処女航海で、「ブレーメン」はイギリス・キュナード社の「モーレタニア」が20年以上保持していたブルーリボンを奪還したのである。
「グラーフ・ツェッペリン」は当時よく知られていなかった世界各地の気象・海象を調査し、旅客輸送を実証するための実用実験飛行船であり、乗客用居住区や船内サービスは航洋客船を目標として準備された。
「グラーフ・ツェッペリン」の指令であったエッケナー博士は『飛行船によって飛ぶのではなく航海するのです。』と言っている。
当時の飛行機の座席数は多くても十数席の狭い椅子で、国内便か隣国間サービスがやっとの状態であったことをこの表現によって現していたのである。
これから、当時の客船と飛行船を較べながら見ていくことにする。
写真は北ドイツ・ロイド社の高速汽船「ブレーメン」である。
「ブレーメン」と「オイローパ」は姉妹船として扱われることが多いが、総トン数も主要寸法も同一ではない。
船主から造船所に基本設計が提示されて、詳細設計は造船所で展開されたためである。
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