2013年01月05日

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村上陽一郎著「あらためて教養とは」

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年末年始にかけて、表記の本を読み直した。

著者は東京大学の教養学部を卒業し、科学史、科学哲学の分野で教育、研究に従事してきた研究者である。

この著書は2004(平成16)年12月にNTT出版から刊行され、2008(平成20)年4月に新潮社文庫から発行されたものである。

構成は第1章「教養教育の誕生」、第2章「知の世界への扉」、第3章「日本の教養のゆくえ」、第4章「大正教養人の時代」、第5章「価値の大転換」、第6章「いま、ふたたび教養論」、終章「私を『造った』書物たち」の前に序章として「教養の原点はモラルにあり」があり、終章のあとに「教養のためのしてはならない百箇条」が載っている。

本書は序章で、『大江健三郎にいささかの批判をした』と説き起こし、戦後の「民主化」あるいは「民主教育」という名目のもとに『「分を守る」ということ考え方が全く無意味なこととして否定され続けてきた』と、自分を律すること、あるいは自制することを否定してきたことを批判している。
大江氏がそれを嘆くだけでは知識人として無責任だと言っているのである。

新渡戸稲造がアメリカに行っているときに、さる人物から「個人はともかく、日本社会に強力な制度的な宗教というものがないと聞いているが・・」と訪ねられ、即答できなかったことを考え続けて欧米人に向けて英語で『武士道』が書かれ、それを矢内原忠雄が邦訳したことを紹介している。(実は新渡戸稲造にその質問を投げかけたのはベルギーの法学者ラヴレー氏の家で歓待を受けていたときのことである)

台湾の総統を務めた李登輝氏も「武士道解題」としてこれを解説した著書を書いている。
「武士道」というが、氏族階級だけでなく寺子屋などで百姓にも町人にも教えられてきた人が人としての道である。

著者は、食べ物について、おいしいとかおいしくないとか言うことは慎みのないことであったが、最近ではグルメ番組なるものが恐ろしくはびこっていると痛烈に批判している。
人として自分を律することを新年にあたって改めて考えてみたい。


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