2012年08月04日

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原爆記念日を前に

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67年目の原爆記念日を前に貴重な写真を見せて貰った。

1947(昭和22)年8月に行われた第1回平和祭の仮設の式場である平和塔が写っている。

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この写真では"NO MORE HIROSHIMAS" の文字が読める。

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当時、米軍を主体として英軍や濠州軍などによる進駐軍に拒絶されないように「原子爆弾による犠牲者の慰霊祭」と呼ばずに「第1回平和祭」として爆心地に近い中島で行われた。

会場は平和の時計塔の近く、オオガハスの蓮池に囲まれて平和の鐘のある辺りであった。何も無いところに平和塔が設けられた。
浜井信三氏が市長に就任した年であった。

浜井市長は、爆撃などによる火災が延焼しないように防火帯として平和大通り(百メートル道路)や平和公園など、焼け野原となった広島市の都市計画を立て実現した、前市長のAなどとは違う立派な市長であった。

Aは折り鶴を何万トンも溜め込んで、市民球場の跡地を折り鶴展示場にするとか、ビオトープにするとか市の中心地を寂れさせるような、折り鶴ボケとしか言いようのないことばかり言っていた。

写真の左側に見えるのが平和塔である。ここで第1回平和祭が行われた。


相生橋は欄干も吹き飛ばされたままである。

その向こうには三角トラスの本川橋が見え、さらにその先に江波山が見える。
本川橋の東側袂の近くのバラックに家族で仮住まいしていたこともある。
原爆慰霊碑や平和公園の整備が始まったのは、それから数年後のことである。

小さな塔には初代の平和の鐘が吊られていたが、無くなって2代目の鐘が鋳造されたと聞いた。

この写真は少し前、このブログを見てくれたことで知り合った広島平和記念資料館の担当の方が送ってくれた佐々木雄一郎氏撮影による写真をトリミングしたものである。

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