2012年01月30日
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元「向日丸」通信員の方と交信
このブログの11月6日に掲載した「日本商船戦時史」を見た大同海運の「向日丸」に通信士として乗務していた方からコメントを戴いた。
大東亜戦争で日本が劣勢と見ると、日ソ不可侵条約を結んでいたにも拘わらず、ソ連は1945(昭和20)年8月8日に一方的に宣戦布告し、その日のうちに爆撃機の編隊が日本海で食糧などの緊急運送を行っていた日本船を爆撃した。
そして羅津港で「向日丸」を護衛していた「海防艦82号」はイリューシン爆撃機の雷撃を受けて轟沈した。
写真は「海防艦82号」と同型の「海防艦8号」である。
この型には偶数の艦番号が振られていた。
戦時中の軍艦類別変更で新たに定義された海防艦は、船団護衛用の小型艦艇であったが良く奮戦した。
甲型海防艦「占守」型「択捉」型、「御蔵」型、「日振」型、乙型海防艦「鵜来」型、「第一号」型に引き続き、漁船などを建造していた中小造船所で建造された「第二号」型は建造された67隻中、短期間に半数が戦没している。
幸いにして「向日丸」は雷撃を免れたが、ソ連の魚雷の調停深度が深かったため、船底を通過したためのようである。
朝鮮咸鏡北道羅津府は亡くなった家内の生まれた地である。
他人事とは思えない。
当時を経験した我々が生きている限り、あの惨禍は忘れてはならない。
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