2011年06月10日
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1956年当時の広島造船所
この写真は明田弘司著「百二十八枚の広島(南々堂、2009年)に掲載されていたものである。
同書には『昭和31(1956)年、現観音新町、三菱重工広島製作所付近』とあるが、江波沖町である。
造船所の手前が太田川(通称:本川)で向こう側が天満川、そしてその向こうに建物が見えるのが観音工場である。
大東亜戦争末期に埋め立てと同時に行われた工場建設と並行して第一番船:久川丸を建造した。
戦後、三菱重工業は東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業(後の三菱日本重工業、新三菱重工業、三菱造船)に3分割され、三菱造船株式会社広島造船所となったが江波、観音工場を併せて事業所としていたのでアドレスは観音新町である。
当初の計画では第一船台から第八船台まで並べ、船渠も繋船堀も複数備える壮大な構想で着工された。
日本の造船所は、横浜も 神戸も 呉も 佐世保も 長崎も海と山の間に押し込められた様な状態で、資材置き場も駐車場もとれないが、広島は広かった(現広島空港が出来るまで、広島空港と呼ばれていた観音の飛行場の敷地は三菱が広島市に譲渡したものである)。
この写真を見ていると、1973(昭和48)年度に同造船所で進水した船舶が10隻(993,991DW、520,471GT)、竣工した船舶が10隻(985,278DW、521,430GT)にまでになったとは信じ難い。
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