2011年05月30日
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堀端の共同住宅(戦後の広島:7)
この写真も昨日の写真と同じく、広島城天守閣跡の石垣の上から撮影されたものである(明田弘司:「百二十八枚の広島」、南々社、2009年)。
南西を向いており、正面遠景は厳島である。
その手前は相生橋の向こう岸に立つ本川小学校のコンクリート校舎である。
左端に相生橋のこちら側に立っていた商工会議所ビルの一部が見える。
手前の木造二階建ては共同住宅と呼ばれていた。
歩くとギシギシ鳴るウグイス張りの廊下両側の狭いスペースに一世帯ずつ住んでいた。
洗面所や便所は端に並んでいた。
ここにも同じくらいの年格好の子供が居たが、建物に入った記憶はない。
その向こうにこの建物と直交する向きで並んでいる屋根は市営住宅で、一棟に4軒くらいから長いものは十軒連なっていた。十軒長屋は共同住宅の前から南に10棟並んでいた。
この当時は、相生橋にも三篠橋にも、幟町から大須賀町に掛かる栄橋にも爆撃で開いた穴が補修もされず、簡単な柵があっただけで学童でも怖くて独りでは渡れない者も居た。
この一帯は原爆の投下される前は野砲兵第五聯隊があったので、ここから幟町小学校に通い始めた頃は野砲の砲身がゴロゴロ転がっていた。
小さな金属片は回収業者が持って帰ったが、野砲はレッカー車やクレーン車ではどうにもならなかった。
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