2011年05月25日

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原爆と高層アパート建設で塗り直された基町(戦後の広島:4)

motomachi_4a.jpg

塔文社のレトロマップシリーズ(4回目)に「昭和27年の広島と現在の広島」が出版されている。
上図はその地図の中央部分である。
広島城の本丸とその南の小さな二の丸が緑色で塗られているだけで、その西は何も描かれていない。
「光の園」は戦災孤児などのための、おそらくキリスト教関係の施設であった。
そのような施設として堀端に「新生学園」という就学年齢の孤児を収容した施設もあった。
道路がクランクに曲がっているところに派出所と郵便局のマークが見える。
この派出所から城跡の方へ、ここに勤務する警察官の官舎が3〜4軒並んでいた。
交番の南側に基町郵便局があり、その南隣に「灰塚医院」があった。
道路が北に曲がっている東南角に池田靴店があった。
池田靴店の角から東南東に道があり、新生学園の方へ行けた。
その道の北側は銭湯を中心にして市場があった。
魚屋、八百屋、散髪屋・・・。
このように書き始めると止まらない。

昭和27年頃には太田川(略称:本川)まで千軒を超える木造市営住宅があり、商店街があり、銭湯も2〜2箇所あり、市場があり、八百屋、駄菓子屋、靴屋、理髪店、病院や診療所、飲食店、夏には氷を冬には炭を売る店や、小さな玩具屋、本屋、果物屋、眼鏡屋、クリーニング店、仕立て屋、古物商、自転車屋、廃品回収業、花屋・・・と挙げて行くときりがない。
この地図には途中でクランクになった道路に破線が引いてあるだけである。
この破線はバス(乗合自動車)の路線で、4〜5箇所の停留所があった。当時のバスストップの呼称も覚えている。

ここを見ようと思ったのに騙された感じである。
車の通れる道も縦横に数本ずつ走っていた。

戦前、この辺りはすべて国有地で歩兵、砲兵、輜重兵などの兵舎や火薬庫、兵器庫、被服庫、それに軍人を対象にした病院などがあった。
しかし、本川上空で炸裂した原子爆弾で消し飛んでしまった。
木造建造物も道路も無くなって瓦礫の山が残った。

従って昭和27年の地図と称して描かれている道路も戦後作られたものである。上述のようにこの地区には人力車が通る道は網のようにあり、自動車の通れる道も幾つかあった。

上図の左下、原爆ドーム近くの相生橋から広がった河岸の不法建築群は当時、すでに左上に描かれている三篠橋まで広がっていた。
かの有名な原爆スラムである。
図の左端に描かれている破線の場所には後に空鞘橋が掛けられたが当時は都市計画にもあったかどうか疑わしい。

その原爆スラムを解消するために高層アパート群が計画され、1969(昭和44)年に着工された。
この大規模工事を行うために戦後生まれた大住宅街であった基町は幹線道路から引き直された。
従って現在の地図は戦前、戦後と全く違うのである。
そのことを思い出して当時の地図を描くことを思い立った。

ウィキペディアに "Hiroshima_map_circa_1930.PNG というファイルがある。
「circa_1930」と名付けられてはいるが、市役所も中島に描かれているし、1929年に合併した牛田村の地名が残っているのでもう少し前の地図である。
しかし、これらを参考に気長に進めて行こう。


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