2011年05月24日
基町の市営住宅群(戦後の広島:3)
ウェブで捜していて見つけた写真である。
手前には広島城の内堀に植えられていた蓮が見える。
背後に見える山は広島三角州の西北に己斐街、山手町から三滝町にかけての稜線で、その向こうは佐伯郡になる。
画面中央やや上に微かにアーチ橋が見えるが、横川橋である。
その手前に右から左に太田川(通称:本川)が流れており、当時はこちら側(基町)と対岸(寺町)の間に手漕ぎの渡し船があった。
客のないときは向こう岸で釣り糸を垂れていた。
ここは比較的大きな鯉や鮒が釣れることがあった。
こちら岸に客が立つと、釣りをやめて艪を漕いで迎えに来た。
一人5圓くらいだったと思う。
川土手から手前まで並んで建っているのは市営住宅群である。
殆ど板壁、土壁ながら隣との間に庭がある。
最初は植木や花を楽しむと言うより、芋や白菜、葱などを植えて副食の足しにするために設けられたものであろう。
この辺りはマシな方で、初期に建てられた市営住宅は4軒、6軒などの長屋が多く、10軒長屋と呼ばれた木造の長い住宅が10棟並んでいたところもあった。
このような市営住宅には所帯毎に水道は敷設されておらず、地ベタからいきなり水道管が立ち上がっていた。
そこで数軒が共同で炊事や洗濯をしていた。
共同使用となると、浮浪者などが勝手に使って漏水も増えるので蛇口はソケットになっていて割り当てられた所帯にそれを捻ることの出来る把手が貸与されていた。
写真の手前2列の市営住宅は最も新しく建てられたもので、二戸建てである。
屋根の中程に仕切り壁があり、それを鏡面のように対称になっていた。
間取りは押し入れの付いた6畳の和室が2間、それに水道、2口の竈のついた台所と便所である。
白壁の市営住宅はこの一角の「北鯉城住宅」と向かって左に100メートルばかり離れた「南鯉城住宅」だけであった。
幸い、比較的広い庭がついていたので、子供が大きくなると建て増しをしていた。
このほかに「城前住宅」、「同援住宅」など「○○住宅」、「××住宅」と名付けられていたのは、そうでもしなければ市営住宅と不法建築と合わせて数千戸の番地が「広島市基町1番地」だったから郵便を配達することも教師が学童の家庭訪問をすることも出来なかったからである。
この辺りは戦前すべて国有地で、「第五師団司令部」、「歩兵第11聯隊」、「砲兵第五聯隊」、「輜重兵第五聯隊」などがあり近くには西練兵場、少し離れて「工兵第五大隊」や「火薬庫」、「兵器庫」、「衞戍病院」などあった。
「南鯉城住宅」や「北鯉城住宅」は一連の木造市営住宅の最後に建設されたものであり、この頃には写真のとおり家のまわりに板塀も作られた。
やっと入居出来たのはその南鯉城住宅19号であった。
そのまわりの川土手などには不法建築が立ち並び、原爆スラムと呼ばれていた。
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