2010年08月25日
(生い立ちの記:36) 研修所専任講師
宿舎の移動を伴う転勤も、単身赴任も初めての経験であった。
当時、事業所は関東から九州まで十数ヵ所あり、研修所は地理的な中間に位置する中京地区にあった。
ちょうどその年の春、Jは県外の大学に入学したので自宅には父と家内が残った。
赴任先の宿舎は研修所から歩いて通える距離にある管理者用の寮であった。
隣接する事業所のパーティや祝宴も行うため、ロビーもホールも広かった。
管理者用の寮ということで課長級・部長級から所長まで入居しており、朝食も夕食も給仕付きであった。
ちょっと仕事で帰りが遅くなっても「お帰りなさい。今日は郵便物はありませんでした。クリーニングは出しておきました。食事はいま温めていますから着替えたら降りてきて下さい。」と面倒を見て貰った。
もう忘れたが、電話の仕組みがちょっと変であった。
専任講師陣は、次長クラスを中心に数名居り、ハードウェア、ソフトウェア、メカニックスなどを担当していた。
主要講座は「中級電子技術コース」といって期間は三ヶ月、定員は24名程度である。
これを毎年、6回開講していた。
最初の1ヶ月が講義、次の1ヶ月が実験、そして最後の1ヶ月で制御システムを開発し、事業所から来た上司や人事担当者の前で発表会を行う。
年に6回なので1ヶ月ごとに前後2組の研修生達が重なる。
彼らは事業所に帰って、各製品の制御システムを担当し後輩達を指導することになる。
担当技師か主任クラスの者もいる。
実習に入ると、深夜までの作業が続き、たまに徹夜をしてしかられるものも出る。
なかには真夜中に部屋をノックして入ってくる者もいた。
「もう駄目です」とか「自信がありません」とか訴えてくるのである。
「まあ、座れ」、「まあ、飲め」、「今日はもう帰れ。続きは明日話しをしよう」と対応したこともあった。
研究生が行方不明になったり、専任講師が行方不明になったこともある。
3ヶ月寝食を共にするわけであるから言動一致が基本であり、講師たるもの「判らない」とか「知らない」と言って逃げるわけには行かなかった。
楽しくもあり、厳しくもあり、良い経験になった。
学生時代を含め家を出たのはこのときだけであった。ときどき家内が様子を見に訪ねてくれた。
名古屋市内だけでなく、伊勢・志摩、鳥羽、鈴鹿、有松、岐阜、犬山など色々なところへ行ったものである。
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