2010年08月24日

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(生い立ちの記:35) ネーバルアーキテクトからシステムエンジニアへ

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この項はしばらく途切れていたので、これまでをちょっと振り返って見る。

入社したときは社名に「造船」の文字の入った会社で、H造船所・造船設計部・基本設計課に配属された。
入社翌年、合併により社名の造船が重工業に変更になった。
そして数年後に造船設計部の改編があり、新編の船殻設計課の一員となった。
その頃は日本の造船業最盛期であり、世界新造船建造量の4割以上を確保しており、年間建造量の世界ベストテンに日本の造船所が数ヵ所挙げられていた。
H造船所もトップテンに入ったこともあった。
従来の貨物船から、コンテナ船、油槽船、バラ積み船(バルカー)、鉱石運搬船などに特化され、新形式船や新構造方式などが開発され、非常に活気のある時期であった。

それからしばらくすると、如何に短期間で効率よく建造するかを追求し、設計図を含む現場の工程/効率管理の時期に移行して行った。
構造強度分野の研究はこの時期に確立されたと思う。

それで研究開発部門に移籍して、構造強度の研究に従事することになった。
「波浪外力とその応答」の実船実験を担当したのもその頃である。

そのうちメカニカルな開発要素のある作業船の研究を行っていたが、追い詰めて行くと計測・制御の分野へと指向していた。
岩石や泥水のなかでどうなっているか直接検出することは難しかったが直接検出できない項目は間接的に捉えるなど、いま思い起こすと面白い研究もさせて貰った。
構造屋、土木屋の仕事とすこし違うと思われたのか、制御研究室に移籍して同系列の開発研究をやっていた。

しばらくすると社内の研修所へ転勤の辞令を受けた。
その会社はもともと機械や造船部門主体のメーカーであったので、電気・電子系やソフトウェア部門の技術者を養成するために、電子・制御研修所が設立されていてそこの専従講師をやれというのである。
そこでソフトウェア開発ばかりでなくICチップの半田付けや、機械語によるコーディングなどを担当した。
短期間であったが良い経験をさせて貰ったと思っている。

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