2010年03月04日
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有朋自遠方來不亦樂乎
今朝受信したなかに、カリフォルニアの 張 令学さんからのメールがあった。
とても嬉しかった。
最近、台湾在住の片倉佳史氏の「台湾鉄路と日本人」という小冊子を読んで台北や淡水線のことを調べていたのでなおさらであった。
清領時代末期に台湾巡撫の劉銘伝が基隆から新竹まで鉄路を敷いたというが、このとき基隆からの軌条は台北車站(駅)は、溯ってくる船への接続を考慮して淡水河岸にスイッチバック式として、新竹へは同じ線路を折り返して北に迂回して淡水河を渡っていたという。
当時、淡水と基隆が外貿港として指定されており、日本郵船は淡水から福州、香港航路を、大阪商船も淡水・香港を開設していた。
そのころ淡水港は黄金期を迎えていたが、河口に土砂が堆積して水路の浚渫を行ったりしていたが貿易港としての機能は衰え、基隆にその役割を委ねることになった。
これがその当時の淡水の街である。
父の書き残しておいてくれたメモによると、当時まだ税関もあり、木村某という水先人(パイロット)も居たという。
写真の左端、貨物船のいる岸壁の傍に2階建ての長い屋根が見える。
(引出線の先に「戦時中、通信隊:賄、奉仕」)
その2階の一番手前の部屋に戦時中、祖母、母、妹と短期間住んでいた。
これは、同じ建物を移した写真で、片倉佳史著「台湾風景印」から転載した。
画質はあまり良くないが、右端は郵便局の主建物であろう。
見出しの写真は、公会堂の建っていた場所から、ちょうど一年前おなじ場所を撮影した写真である。
近年整備されて河畔のテラスや遊歩道になっている。
張さんのメールに淡彩画という字句があった。
父は素人ながら書や淡彩画を描いていた。
淡水で幸せな時代を過ごした祖母、父、母のことを思い出しながら父の色紙を載せてみようかと思っている。
淡水のことが話題になっていると、むさぼるようによんでいます。戦前の淡水のこと、たくさんしりたくて。淡水在住の叔父はみんな亡くなってしまいました。叔母たちはまだ健在ですがもう高齢でみんな75歳以上。近所にいる母は93歳ねたきりでなにもわかりません。母は昭和13年10月に淡水公会堂(写真から推測、たぶん)で結婚式をあげてから、父とともにそのまま門司港へ。宮崎県日向市、大分県佐伯市で生活しました。
母はわたし(昭和14年生まれ)によく、淡水時代のはなしをしてくれていました。台北第3高女への列車通学(皆勤賞)、淡水海水浴場、新高山登山・・・。
(旧)紺碧の海さんのこのページで両親の故郷の当時のことをたくさんしりました。こころからお礼申し上げます。
母の父は淡水で教員でした。戦前も戦後も淡水小学校(国民学校?)などで校長をやっていたそうです。洪火丙(火へんに丙)南といいます。母は9人姉妹の長女です。父の祖父は淡水街長だった呉輔卿。
こんごもたくさんおしえてください。
おさしつかえなければメールをいただけるとありがたいです。