2010年02月25日
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日本統治時代の台湾鉄路
片倉氏の「台湾鉄路と日本人」には、日本統治時代と現状の路線が載っている。
同書によると、1895(明治28)年に台湾が清国から日本に割譲される8年前に、台湾省巡撫の劉銘伝によって鉄路の建設が始まったという。
劉銘伝は、日清講和の下関条約締結にあたり全権大使を務めた李鴻章などと共に洋務派として知られていた改革推進主義者であった。
保守勢力の強い大陸では、その改革が実現出来る可能性がなかったため、台湾を福建省から分離させて省とし、劉はその巡撫(知事相当)として渡台してきたという。
清国政府は、もともと台湾を統治することが出来ず、手を焼いていたので諾々とこれを承認したものと見える。
(1871(明治4)年に、台湾に漂着した琉球御用船の乗員が原住民に拉致され、逃亡した54名が殺害されたいわゆる牡丹社事件で明治政府に賠償を求めたが、清国政府は台湾は化外の地であるとして応じなかったため、西郷従道征討軍が出兵している)
劉は基隆から新竹まで鉄道を敷設したところで台湾巡撫を辞している。
大陸では1876年に呉淞から上海まで鉄道が敷設されたことがあるが、開業前に住民によって機関車は揚子江に放り込まれ線路は撤去され、遺棄されてしまったので劉銘伝の建設した鉄道は清国で初めて営業された鉄道となった。
戦前はこの地図で見るように海岸線を結ぶ鉄路は完成しておらず、今のように花蓮や太魯閣に行くことは簡単ではなかった。
地図には清国時代に開通した区間が緑色の破線で示されている。
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