2009年11月03日
台湾のスタンプ(8) 北投
淡水線は台北駅から、「大正街」、「双連」と街中をぬけて台湾神社や動物園のある「圓山」、「宮ノ下」、「士林」、「ロ基里岸」、「北投」、「江頭」、「竹囲」を通り「淡水」が終着駅であった。
「江頭」は関渡宮の祀られているところで、MRTの駅名は「関渡」である。
また「竹囲」と「淡水」の間にはマングローブを意味する「紅樹林」という駅が設けられている。
「北投」からは1区間だけの北投線が「新北投」へ連絡していた。
大東亜戦争の末期、親たちは被害に遭うかもしれないがせめて子供だけでも助けたいと淡水の小学生が北投の善光寺に疎開したことがあった。
祖母や母は保母として同行することになり、未就学の私と妹も一緒に行った。
台湾周辺の制海権を押さえられ、毎日のように米軍の艦載機が下の街を機銃掃射するようになった。
ある時、学童を防空壕に避難させて寺の縁側で見ていたら、一機がいきなり上昇してきた。
急いで防空壕へ逃げようと思ったが間に合わず、給食用に仮設した炊飯所へ逃げ込むのがやっとであった。
祖母と母は、流しの下に私と妹を押し込み、その上に追い被さった。
その肩越しに、赤い機銃弾が竹の屋根にバラバラと当たっているのが見えた。
2005年に、引き揚げて以来一度も台湾に行ったことのなかった妹を連れて淡水に行ったときに、北投に行きタクシーに頼んで善光寺まで登った。
日本式の石灯籠はあったが、寺は展望台のようになっていたのでそこから下界を眺めて帰った。
あとで知ったことであるが、その展望台の下には戦前のように畳を敷いた善光寺が今も残され守られているという。
温泉の流れる川に浮浪者が湯を浴び衣類を木の枝に干していたり、ゴルフ場のような草原でぼこぼこと沸く温泉で卵を茹でていたりと、北投と聞けば幾つか断片的な思い出が蘇ってくる。
母が話してくれたところによると善光寺で薄暗いところで蠢く毛虫を掴んで泣いたこともあったという。
美しい戦前の思い出、楽しく拝読しました。
戦後の淡水線汽車は石炭を炊いて黒い煙を吐いていた。でも、北投から新北投へはスマートなガソリン・カーでした。新北投へは英会話学習の為に週何日が米軍家族の家へ通った思い出があります。
淡水線の円山駅から宮前駅へ渡る鉄道橋は老朽の為、汽車は手前で一旦停車し、徐行で橋を渡つた。
ちなみに、北投のスタンプの絵は何を表しているか残念ながら解読できません。 張三
張さん、こんにちは。
私もこの図柄はよく判らないのですが、おそらく日傘を差したご婦人が岩肌と緑のあいだの小径を歩いている後ろ姿ではないかと思います。