2009年11月02日
未来の旅客用飛行船を考える(16) 事例分析(7:イギリスの硬式飛行船)
イギリスはドイツ以外では最も多くの硬式飛行船を建造している。
しかし、他の国では見られない傾向が幾つかある。
その一つは、あまり系統的に開発した様子が見られないことである。
たしかに、ヴィッカース、ビードモア、ショート、アームストロング、エアシップ・ギャランティ等民間航空機メーカー各社に加えて官営飛行船工場でも建造しているが、全く経験のない各社が個別に設計、建造されている。
ここには、ドイツ人ができることならイギリスでは設備さえあれば可能であるという慢心が感じされるものがある。
ドイツでは、ツェッペリン飛行船製造社以外に硬式飛行船を建造したのは造船学の権威、ヨハン・シュッテ博士のシュッテ・ランツ飛行船製造社のみであった。
第2に、これに関連することであるが、船名からも判るように発注された後にキャンセルされたものが異常と言えるほど多いことである。
実際に建造されたものの船名にも一貫性が見られない。
1911年にヴィッカースのバーロウ・イン・ファーネスで建造された、イギリス最初の飛行船の船名は "Airship No.1 Mayfly" であった。
最初に建造した飛行船に「飛ぶかも知れない」などと命名するなど、如何にブラック・ユーモアが好きと言っても度が過ぎている(結局、一度も飛ばずに解体されたが・・)。
その次に同じくヴィッカースで1916年に建造された飛行船は「LZ14:L1」、「LZ16:ZⅣ」などツェッペリンの n型をプロトタイプとし、エンジンもマイバッハ6気筒エンジンを搭載した「第9号」であった。
そして3隻目から6隻目までも同社で建造されているが、その船名は「第23号」(1917年9月)、「第24号」(1917年10月)、「第25号」(同)そして「R26」(1918年3月)であった。
この設計はフランスで撃墜されたツェッペリンの「LZ77」( q型)、「LZ85」(r型)の残骸を参考に設計されたものである。
おそらく、「第1号」〜「第8号」、「第10号」〜「第22号」は設計図止まりであったのであろう。「R26」の "R" は "Rigid Airship" を示すものと思われる。
「R27」から「R30」はグラスゴーのビードモア社に発注されたが「R28」と「R30」はキャンセルされている(1918年竣工)。
この形式はシュッテ・ランツの「SL6」、「SL8」を参考にして設計された。
「R31」、「R32」は飛行艇メーカーとして有名になるショート・ブラザーズに発注され、建造された(1918/19年)。
この設計にはドイツの設計技術者がスイス経由イギリスにもたらした情報が活かされていた。
「R33」はアームストロング社で1919年に竣工し、「R34」はビードモア社で同年建造され「R34」は初めて北大西洋を無着陸で往復した最初の飛行船となったが、「R35」はまたも発注後キャンセルとなった。
この「R33」型はツェッペリンの「LZ62(L30)」型に模して設計された。
ビードモア社で建造された「R36」はフランスで強制着陸させられた「LZ96:L49」をプロトタイプとして建造された。
1921年に初飛行したこの飛行船には50名の乗客のためにツインキャビンが取り付けられていたが、総飛行時間が100時間にもならず、1926年に解体された。
同型の「R37」は工事中にキャンセルされている。
1921年にショート・ブラザーズで起工され、建造中に官営飛行船工場に移管された「R38」は、完成後米海軍に引き渡されて「ZR2」となるはずであった。ツェッペリンの「LZ112:L70」を模して建造された同船は、最終段階の飛行試験で1921年8月24日、ハンバー川上空で空中分解し、15名の米海軍の艤装員が29名のイギリス人乗組員とともに犠牲になった。
建造中であった「R39」、「R40」、「R41」はキャンセルとなった。
ヴィッカース社のウォリス博士の設計した「R80」は1920年に進空し、翌年9月20日までに73時間12分飛行したのみで1925年7月に解体された。
おそらく、事故が続いたので新規に設計した硬式飛行船の船名に80番から再出発しようとしたのであろうが、姉妹船「R81」は1918年3月に建造が認許されたものの、未発注のまま終わっている。
そしてツェッペリン社が建造した米海軍向け賠償飛行船がアメリカに移送された1924年の秋、「R100」と「R101」の設計が始まった。
「R100」はヴィッカース社が設立したエアシップ・ギャランティ社が、「R101」は官営飛行船工場で建造された。
「R100」は1929年12月16日に「R101」は同年10月14日に初飛行を行ったが、「R101」はその後改造を行い翌年10月に2度目の試験飛行を行わなくてはならなかった。重量が超過したためにガス嚢を増設せざるを得なかったのである。
1930年10月、試験飛行もそこそこにインドに向けてカーディントンを飛び立った「R101」はフランス北部の丘陵地帯に墜落し、トムソン卿など要人を含む48名が犠牲となり、イギリスは硬式飛行船の運航を断念し「R100」も解体してしまった。
ドイツのツェッペリン社では、建造した飛行船に一貫した建造番号を付けており、大戦中などは建造日程が変更になる場合もあったが、第一次大戦の停戦で建造中であった飛行船が解体されたほかに欠番となったのは「LZ70」一隻のみである。
これに較べるとイギリスでは飛翔できたか、出来なかったかを問わず実際に建造された17隻に対して発注後キャンセルされた飛行船が7隻、予算が付いたにも拘わらず発注されなかったものが1隻と異常に多い。
これは、事例分析以前の問題である。
イギリスは硬式飛行船の建造や運航を急ぐあまり、基本を踏み外していたと言われても仕方のないところがある。
設計面、運用面双方でフィロソフィーやポリシーというものが見えない。
犠牲になった人たちがお気の毒である。
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