2009年10月26日
未来の旅客用飛行船を考える(11) 事例分析(2:「幸運な惨事」)
「LZ2」を建造した水上格納庫で建造された「LZ3」は、初めて認められて陸軍に納入され「ZⅠ」となった。
この飛行船は1906年に初飛行し20回の飛行の後、1908年10月に改造され、ガスセルを増設して16から17になり、全長が128メートルから136メートルに延長された。
その後、馴れない陸軍に持て余されながらも45回の飛揚を行い、1913年3月に解体された。
改造後の「LZ3」と同じガスセル数、同じ全長ながら平行部直径を11.7メートルから13メートルに増大させた「LZ4」が同じ格納庫で組み立てられた。
1908年6月20日に初飛行して以来、順調に試験飛行を重ね、7月1日にはメーアスブルクからコンスタンツ、ルツェルン、キュスナハト、チューリヒ、ブレゲンツ、リンダウ、フリードリッヒスハーフェンとまわる12時間のスイス飛行を成功裏に終了した。
硬式飛行船引き取りの条件として提示された、24時間連続飛行と地上への着陸を証明するために、8月4日にフリードリッヒスハーフェンを離陸した「LZ4」は、コンスタンツ、シャフハウゼン、バーゼル上空を順調に飛行し、ライン川に沿ってシュトラスブールの上空を周回したあと、シュパイア、ウォルムス、マインツの手前でエンジンの1基が故障し、ライン河畔のオッペンハイムで不時着をせざるを得なかった。
連続運転によりエンジンが過熱したのかも知れないが、このときは河岸への着陸も再離陸もできた。マインツで帰途につきマンハイムへ南下し、ライン川からそれてエッピンゲンシュトットガルトを経由してマンツェルに向かった。
そしてシュトットガルトを過ぎて、修理したエンジンが再度故障したのでダイムラーの工場近くに着陸してエンジンを整備するために繋留した。
ダイムラーの工場へエンジンを取りに行かせて休息しているときに雷雨まじりの突風に襲われ飛行船は見張り要員を乗せたまま吹き上げられて外被が破れ、張線が破断してスパークが発生し、炎上してしまった。
「エヒターディンゲンの惨事」である。
資産を抵当に入れて飛行船を開発していたツェッペリン伯爵には借財だけが残った。
このとき、ドイツ全土から伯爵のもとへ基金が寄せられ、気落ちした伯爵がフリードリッヒスハーフェンに戻ったときにはすでに百万マルクを越える寄付金が寄せられていた。
結局、このとき寄せられた寄付金は6百万マルクを超えたという。
この基金で「ツェッペリン飛行船製造有限会社」が設立されたのである。
この惨事が「幸運な惨事」と言われる所以である。
アルミニューム素材メーカー、カール・ベルクの娘婿のアルフレート・コルスマンが経営者としてむかえられた。
コルスマンは非凡な経営者であった。
硬式飛行船の開発に技術的見通しは立ったものの、それを買ってくれる人も会社もなかったので、コルスマンは全国の主要都市に株主になって貰って、世界で初めての航空会社を設立することを提案し、それを実現したのである。
新しい技術や製品が発明されただけでは実用化や普及に進展して行くとは限らない。
新しい需要を喚起して製造を続けることにより、設計や運用の蓄積をはかり、信頼性や性能の向上に結びつけた功績は大きい。
彼はバーデン・オース、フランクフルト・アム・マイン、デュッセルドルフ、ハンブルク、ヨハニスタール、ゴータなど主要都市の市長を説得してDELAG(ドイツ飛行船空輸株式会社)の株主になって貰い、これら各都市に飛行船用格納庫を建設させたのである。
このため、経済学者であり哲学者であったフーゴー・エッケナーを広報担当役員に採用し、彼は各市長にDELAGの将来性を説明し、株主になることを説得した。
なかにはうまく採算に乗らなかったところもあり、それに関して責任を感じると述懐している。
これら各都市で遊覧飛行や都市間旅客輸送の実績を挙げると同時に、飛行船乗務員の養成機関としても機能している。これら研修要員には軍の士官や下士官も多く含まれており、ドイツ陸海軍が短期間に飛行船を運用可能とするための訓練にもなった。
エヒターディンゲンの惨事のあった5週間前の1918年の7月に、ルマンでウィルバー・ライトにより初めての公開飛行が行われている。
ライト兄弟は飛行原理そのものに特許を主張し、長年にわたってカーチスなどライバルを押さえ込もうとした。
ヨーロッパではライト複葉機とは無関係に飛行機の開発が行われており、ブラジルからフランスに来たサントス・デュモンは1901年に軟式飛行船でエッフェル塔周回に成功したのち、1906年には複葉機(14bis)で飛行に成功していた。
このように開発も運用も個人に依存しておりうまく伝承されなかったため、飛行機の実用化は飛行船に較べて遅れてしまった。
硬式飛行船の開発に関してはツェッペリン伯爵の名声に較べてコルスマンの功績はあまり知られていないようであるが、開発・設計技術者のルートヴィヒ・デューアと、後に述べるフーゴー・エッケナーとともにもっと評価されて良い人物であった。
"未来の旅客用飛行船を考える(11) 事例分析(2:「幸運な惨事」)"へのコメントはまだありません。