2009年09月25日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「紺碧の海」はこちらです ***

近代的旅客用飛行船の系譜(3) 休戦協定直後に出現した新型飛行船(1)

LZ120_6.jpg

休戦協定が署名され、第一次世界大戦の軍事行動が停止された1918年11月11日から僅か5ヶ月後の1919年4月、ツェッペリン飛行船製造社のフリードリッヒスハーフェン工場では新しい飛行船の建造が開始されていた。

コンピエーヌの休戦協定では、1700機の戦闘機と爆撃機を直ちに連合国側に引き渡すことは合意されたが、航空に関するその他の条件の調整には時間が掛かった。
連合国とドイツとの講和条約であるヴェルサイユ条約が調印されたのは1919年6月28日で、同条約が批准されたのは1920年1月10日のことである。

工場手持ちの資材で建造された新型飛行船は8月に完成した。
銀灰色の船体両側には鮮明な赤で大きく「BODENSEE」と船名が書かれていた。
船体外被は綿布にセルラッカーを浸透させた塗装が施されていたが、ラッカーには太陽の輻射をなるべく反射させるためにアルミニューム粉末が含まれていた。
その飛行船の全長は、それまでに建造された113隻のツェッペリン飛行船のどれよりも短く、ずんぐりとして奇妙に見えた。
これがエポックメーキングな近代的旅客用飛行船第1号のデビューであった。

第二次世界大戦の敗戦を経験している日本では考えられない状況である。
海軍飛行船(ドイツ陸軍は燐を使った焼夷弾が用いられるようになると飛行船の運用を諦めていた)建造用の資材とは別に、小型とはいえ定期運航に耐える飛行船を作れるだけの資材がメーカーの工場にストックされていたこと自体、考えられないことである。
日本では寺の釣鐘も公園に立つ銅像も金属という金属は供出させられていた。

我々にとって考えられないことが他にもあった。
第一次大戦末期、ツェッペリン・コンツェルンのフリードリッヒスハーフェンの工場だけで従業員が1万人を越えており、大規模宿泊所に居住したり、周辺から働きに来ていたが、前線崩壊の第一報を聞いた経営者のコルスマンはコンツェルン外から通勤する労働者に対して、直ちに退去した場合には旅費と報酬を与えることで、その大部分を辞めさせることが出来たと言っている。
その1918年の11月、12月頃にフリードリッヒスハーフェンでは容量10万立方メートルで欧米航路に就航する「アメリカ船」のことが既に話題に上がっていたと言うのである。
10万立方メートルと言えば、上述「LZ120:ボーデンゼー」のガス容量の5倍で、後に同所で建造された「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」に匹敵する大きさである。

それがなぜ、ツェッペリン飛行船建造史上最も短い飛行船として出現したのであろうか?
「アメリカ船」とは一体、どんな飛行船であったのだろうか?
そしてなぜ、その「アメリカ船」を検討中のまま、この小型飛行船の建造を急いだのであろうか?


Comment on "近代的旅客用飛行船の系譜(3) 休戦協定直後に出現した新型飛行船(1)"

"近代的旅客用飛行船の系譜(3) 休戦協定直後に出現した新型飛行船(1)"へのコメントはまだありません。