2009年08月14日

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己丑台湾紀行(11) 出生地

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淡水の市街は2002年にクルーズ船「ぱしふぃっくびいなす」で基隆に寄港して以来、何回か訪ねており、そのたびに記憶をたどって街を歩き回ったが判然としなかった。

今回、やっと自分の生まれた場所を特定することが出来た。

上の地図で、右下に見えているのがMRT淡水線の終着駅、淡水車站(駅)である。

左上の「北門鎖匙」と表記してあるのが滬尾砲台、「台北縣忠烈祠」が戦前の淡水神社で、「紅毛城」の域内に旧英国領事館もある。

戦前は緑で着色されている中山路はなかった。
それで公会堂の建っていた場所が判らなかったのである。

中正路から、中山路を越えて「文化小学校」「淡水中学校」に向かう「馬偕街」と書いた道の「馬」の字の場所に淡水街役場の管理する公会堂があったのである。

その坂の下にはマッカイ神父が建てた長老派教会がある。

この道は中山路を陸橋で跨いでいるが、今も当時の淡水街長宅が残っており、ガイドマップにも淡水町長、多田栄吉旧居と記されている。
このガイドマップは淡水古蹟博物館が発行しているものであるが、戦前淡水にあった海軍水上機基地のあった場所まで載っている。

郵便局も市場も戦前と同じ場所にあり、今も当時と同じところに豆腐屋を見つけたときは驚いた。

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中山路を跨ぐ陸橋である。
右のバイクのおいてあるところが、戦前公会堂のあったところで、現在は淡水縣淡水鎮の鎮立図書館になっている。

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建物は火災に遭い、取り壊されたがその前を下の町に降りる坂道や、その石垣は当時のまま残されていた。

当時裏は山手で、今掛かっている陸橋を渡ったところが街長宅であった。
当時そのまま残っている建物には、このほか河岸にある台湾銀行淡水支店長宅がある。

おそらく日本人が引き揚げたときに蒋介石政権がすべて接収し、そのために再開発から取り残されているのであろう。

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このスロープは微かに記憶がある。

壁面に壁画のようなものが描かれているが、当時は当然こんなものはなかった。

右隅にマッカイ神父の建てた淡水長老派教会の尖塔が見える。

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その坂を下ると河岸のほうに曲がっており、そこに古蹟の一つがあった。

ガイドマップによると滬尾偕医館となっている。

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拡大した写真である。

マッカイ神父がカナダから淡水に来て、一軒の借家に居を構え、ここで礼拝、診療、授業を行った場所である。
医師である神父は淡水に神学校や女学校を開設し、それが真理大学などになっている。
診療所は現在、台北のMRT双連車站のそばに大きな総合病院、馬偕医院となっている。

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長老派教会はステンドグラスの美しい教会だそうである。

何度も訪ねているが、まだ入れて貰ったことはない。


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