2009年08月08日
己丑台湾紀行(8) 淡水へ
戦前も淡水まで鉄道があった。
基龍から西海岸に沿って高雄まで敷設された縦貫線の台北駅から、淡水河にそって下る淡水線である。
当時の駅は、台北・双連・圓山・宮ノ下・士林・基哩岸・北投・江頭(関渡)・竹囲・淡水であった(基哩岸の基には口偏がつく)。
殆ど現在のMRT淡水線のルートであるが、台北と双連の間に大正街という駅があったのかも知れない。
宮ノ下は台湾神社の足元に作られていた(現:劍譚駅)。当時も北投・新北投の支線はあった。
関渡宮の前の駅は当時は江頭の字を充てていた。
台北から淡水まで約20キロで、所要時間は40分程度である。
見出しの写真は戦後、淡水河に掛けられた関渡大橋である。
こちら側の河岸を走っているのが捷運(MRT)である。
川辺には僅かにマングローブが見える。
右手、川下の停車場は竹囲で、戦前はその次が終点の淡水であったが、MRTではマングローブの漢字表記である紅樹林という停車場が設けられ、そこから淡水車站まで立派な木道が整備されている。
淡水駅の表側である。裏はきれいに整備された河岸公園になっている。
いつもは河沿いを歩くのであるが今回は、まっすぐ「滬尾砲台」に行くために、初めてバスに乗ってみた。
乗車口でカードをかざすだけで簡単である。
地元の人は殆どカードを入れたバッグをかざしているのにはちょっと驚いた。
降りるときはそのまま降りているから均一料金なのであろう。
中山路を通っておよそ2キロ走り、町外れで降りた。油車口という。
そこには戦前、淡水神社があった。
ずっと前からあったのかと思ったが父の書き残しておいてくれたメモを見ると、父もその造営に勤労奉仕したとある。
そこは現在、台北郡忠列祠となっている。
その参道と並行してきた道をさらに進むと有名な淡水ゴルフクラブである。
そのゴルフ場の入り口に遺跡、滬尾砲台の受付があった。
受付の前まで進むと左手に旧要塞の入り口が見える。
表示に従い、2人分で200台湾ドルを出そうとすると、中にいた若い者が出てきた。
いま、観光キャンペーンをやっているとかで買い物のレシートがないかという。
ホテルの売店やコンビニ、キオスクなどで何か買っていたと思い、ポケットを探してみる。
レシートが2,3枚出てきた。
受付氏はそのうち2枚をとって、どうぞと遺跡説明の栞をくれた。
古砦の入り口には、ガイドさんが3人待っていた。
今回の淡水に来た目的の一つはここを訪ねることであった。
ちなみに私の出生地の住居表示は、台北州淡水街砲台浦38番地である。
引き揚げたとき、6歳になったばかりであった。
それから49年経ってクルーズで台湾を訪れた。
当時は、その地域を貫通するメインロードが出来てはいたが、まだ街並みに戦前のよき時代の雰囲気が残っていた。
それからさらに数年過ぎてからは年に一度訪台するようになった。
首都近郊の観光地として街路が整備され、レストランや喫茶店が出来、川沿いは縁日のような賑わいを見せるようになって来た。
淡水に来るたびに、このあたりにも住んでいたことがあるとか、幼児の頃遊んだ家の前からダラダラと下町に降りる歩道があったなどと思いながら街を彷徨したものである。
2年前の冬に、初めてこの砲台を知り、その中で自分の生まれた洋館の写真を見つけた。
何となく、今回はその生家跡を確認できるような気がして再訪したのである。
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