2008年12月01日

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飛行船四方山話(26):もう1人の功労者

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硬式飛行船の完成に貢献した影の功労者・・・。

[区分] 人物・飛行船開発の功労者
[級]  中級

[問題]
硬式飛行船の発明者としてフェルディナンド・ツェッペリン伯爵の名はよく知られていますが、ツェッペリン飛行船製造社の系列以外でもう1人その完成に功績のあった人物が居ます。誰でしょう?

 1.ルードヴィヒ・デューア博士
 2.ヨハン・シュッテ教授
 3.カール・マイバッハ博士
 4.クラウディウス・ドルニエ博士

[答] 2

[解説]
硬式飛行船と言えば流線型の船体の船尾に大きな十字型の尾翼(垂直/水平安定板)を思い浮かべますが、初期のツェッペリン飛行船には流線型船体も十字尾翼もなく、両端を整形した長い円筒形船体の後端に(あるいは前端にも)何枚かの平板で構成される鰭がついていました。
硬式飛行船を流体力学的形状に改良し、推進方式・ガス排出ダクトなどに多くの改良を施したのはダンチヒ工科大学のヨハン・シュッテ教授でした。
シュッテ教授は1908年8月にエヒターディンゲンで「LZ4」が炎上したとき、一週間以内に流体力学、推進システム、構造強度などの観点から飛行船の船体と推進に関する抜本的に改善された設計をツェッペリン伯爵に提案しました。
シュッテ教授の設計には水上船舶の二重底に類似した強化二重フレーム、船首から船尾に縦貫するキール、一体化された水平・垂直安定板、船尾に取り付けられた舵、推進機関と直結されたプロペラ軸など、造船技師なら誰でも思いつく改善が盛り込まれていました。
シュッテ教授の大きな功績である流線型の船体と浮揚ガスを弁操作する内蔵排気筒はこの少しあとに開発されています。
しかし、ツェッペリン伯爵は慇懃に、しかしはっきりとその提案の採用を断りました。
シュッテ教授は終生、ツェッペリン伯爵の賞賛者であったと言われています。

ヨハン・シュッテはオルデンブルクの出身で、ベルリン・シャルロッテンブルク工科大学で造船学を専攻し、ドイツ最大の海運会社北ドイツロイド(NDL)に入社し造船部門に配属になりました。
NDLは、当時イギリスが保持していた北大西洋速度記録保持者の象徴であるブルーリボンを奪還しようと高速客船を発注したのですが造船所は保証した速度を達成できませんでした。
入社したばかりのシュッテ青年はイタリアの試験設備で船型模型試験を行い最適な水面下船型を突き止め、この研究成果によりNDLはその船の引取を拒否したのです。
NDLで研究部門の担当として外洋船舶の船尾形状の改善に貢献しました。
1904年にその業績を認められて30歳の若さでダンチヒ工科大学の教授に迎えられました。エヒターディンゲンの事故はその4年後のことです。

ツェッペリン伯爵に提案を断られたシュッテ教授は、内務省、陸軍省、海軍省などに働きかけていましたが、1909年4月にマンハイム・ライナウの農機具工場経営者のカール・ランツ博士などの支援によりシュッテ・ランツ飛行船製造社を設立しました。
シュッテ・ランツの飛行船はフレームに合板を用いていましたが、第一次大戦でツェッペリンと相互の特許を許諾しあうことになり、後期のシュッテ・ランツ飛行船にはジュラルミンが用いられていました。

ルードヴィヒ・デューア博士は「LZ1」建造中にツェッペリン飛行船の製造に従事し、119隻のツェッペリン飛行船のうち「LZ2」以降全ての飛行船の主任設計者として有名です。

カール・マイバッハの父ウィルヘルム・マイバッハはゴットリープ・ダイムラーとともにエンジンの研究を行い、1901年にメルセデス第1号を完成させました。
マイバッハがいなければ後のダイムラー・ベンツはなかったと言われるほどの人物です。
そのマイバッハ親子がツェッペリン伯爵のためにエンジンを作ろうと1909年にダイムラーを退社してフリードリッヒスハーフェンにマンバッハモーターを設立しました。
カール・マイバッハは今もフリードリッヒスハーフェンに眠っています。

クラウディウス・ドルニエはバイエルンで生まれ、ミュンヘン工科大学を卒業後ツェッペリン飛行船製造社に入社しましたが、ツェッペリン伯爵から飛行機を開発するように命じられ、大型飛行艇をはじめ多くの飛行機を開発し、後にドルニエ航空機として独立しました。
彼もフリードリッヒスハーフェンの中央墓地にマイバッハやエッケナー、デューアなどと一緒に眠っています。

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