2008年10月29日
コルスマンの著書にエッケナー博士の署名記事
ツェッペリン伯爵は出来る人物を見出して、その能力を発揮させる卓越した能力を持っていた。
亡くなったあと後事を託したフーゴー・エッケナー博士は哲学者、経済学者でありながら広報や操船要員の教育、飛行船製造社と運航会社であるDELAGの経営に留まらず、ツェッペリン研究家のイタリアンダーをして「天候を嗅ぎ知った」と言わしめるほど卓越した飛行船指令でもあった。
最初の飛行船「LZ1」を建造中にツェッペリンに入社したルードヴィッヒ・デューアは「LZ2」以降、最後の飛行船まで全てのツェッペリン飛行船を設計した主任技師であった。
最初の「LZ1」を設計したコーベルも、デューアも機械エンジニアで、航空工学も船舶工学も畑違いであり、造船設計技師の端くれであった筆者が見ても変な設計であったが何もないところから曲がりなりにも浮揚するものを建造したことだけで尊敬に値する。
その後、船舶工学の専門家シュッテ教授という好ライバルを得て、空気抵抗、操縦性、推進方式などを改善し、夢の飛行船「ヒンデンブルク」型を完成させている。
この2人に劣らない重要人物がアルフレッド・コルスマンである。
「LZ4」の炎上で無一文になった伯爵に全国から義捐金が寄せられ飛行船製造社を設立したものの、まだ政府も軍部も飛行船そのものに懐疑的であり、仕事はなかった。
アルミニューム製造会社の経営者カール・ベルクの娘婿であるコルスマンは、国内主要都市に働きかけて飛行船運航会社DELAGを設立し、遊覧飛行で収益をあげる傍ら、その運航で陸海軍を含む乗務員の養成を行ったのである。
彼は飛行船事業だけでなく、エンジン製造や、歯車製造など関連子会社を設立し、ツェッペリン・コンツェルンを確立し、数千人の従業員の福祉のためにツェッペリン・ドルフを作るなど、今日の経営者が真似の出来ないほどの立派な経営者であった。
そのコルスマンの著書「飛行船、発進!」を見ていると貴重な資料を見つけた。
エッケナー博士が、1900年10月に「LZ1」の第2回飛行をレポートしたフランクフルター・ツァイトゥンク紙の記事である。
数年後「LZ2」がアルゴイまで漂流し、不時着、全損となった飛行船のレポートもある。
このとき現地で残骸処理を指図していた伯爵は同紙を持って、シルクハット姿でエッケナー邸を訪ねている。
その後、彼が飛行船船長になることを勧め、経営者となったエッケナー博士と方針の違いから退職しているがその功績は忘れてはならない。
写真は「サウルがパウロに」の項の冒頭、段落の下がフランクフルター・ツァイトゥンクの記事である。
1932年に発行されたものの復刻版で、活字はフラクトゥールのまま印刷されている。
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