2008年09月06日

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文献調査の楽しみ

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文献を調べていたら、以前から知りたかったことが判明した。

ツェッペリン伯爵が試行錯誤で硬式飛行船の開発を行っていた頃、伯爵が最初に任命した飛行船指揮者を知りたかったのである。

最初の実験船「LZ1」から陸軍に納入した「LZ5」までは伯爵自身が乗船して指揮していたが、「LZ5」の初飛行のとき、伯爵は70歳であったのである。
そういつまでも伯爵自身が操船の指揮をとるわけには行かない。
誰だろうと思っていたのである。

今日、それが判明した。
といっても、文献に載っていたわけではない。
幾つかの文献に載っていた事実を調べて行くうちに判ったのである。

実は、「LZ1」の建造時に伯爵に招かれてツェッペリンに入社し、「LZ2」以降すべての飛行船を設計した設計主任のルートヴィヒ・デューア博士だったのである。

このことはあまり文献に載っていないが、デューアは「LZ6」と「LZ7」の指揮を取った。

「LZ6」は、バーデン・オースの格納庫で整備中に炎上してしまい「LZ7」はトイトブルクの森で木立にぶっつけて壊れたのである。幸い、両方とも人が犠牲になることはなかったが、責任を感じてその後飛行船の指揮を取ることはなかった。

それで、DELAGの経営者であったコルスマンが広報担当役員であったエッケナー博士にやってみないかと声を掛けたのである。

デューア博士は飛行船の船長よりも、その設計の方が向いていたのかも知れない。
何事も自分でキチンと確認し責任を取るエピソードとして「LZ5」の事故の話が伝えられている。

1909年5月末「LZ5」は37時間耐久試験飛行中であった。
デューア博士は、その飛行で昇降舵とガス通気筒の担当をしていたが、連続運転中睡眠もとることなく操作・計測にあたっていた彼は疲労の極限に達し、飛行船はゲッピンゲンで梨の木に衝突したのである。
その後、飛行船はフリードリッヒスハーフェンで修理を行い陸軍に納入されて「ZⅡ」となった。

エッケナー博士の著書にも曖昧な表現ながら記述されている。

それにしても、伯爵は適性と能力のある人物を見付け出し、その分野の仕事を信頼して任せることに掛けては特別な資質を持っていたことは間違いない。

デューア博士は、その風貌から頑固な変わり者の様に思う人もいるようであるが、謙虚で誠実な人物であったとフォン・シラー船長も述べている。

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