2008年09月05日
「グラーフ・ツェッペリン」が長寿を全うした理由
当時、硬式飛行船は乗客だけでなく、航空貨物・航空郵便などの分野で非常に多くを期待されていた。
しかしながら、多くの飛行船が短期間で失われていった。
「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」就航の後、ドイツでは夢の乗り物と言われた「LZ129:ヒンデンブルク」、イギリスでは「R100」、「R101」、アメリカでは「ZRS4:アクロン」、「ZRS5:メーコン」が建造されたが、「グラーフ・ツェッペリン」以外は就航後1年から2年の間に消えてしまった。
この5隻のうち、格納庫で解体されたのは「R100」1隻のみである。
「R101」は、1929年10月に完成し、1931年10月にイギリスからエジプトに向かって出発したが、パリ北方の丘陵地帯に墜落炎上し、56名のうちエンジンゴンドラにいた8名を除いて死亡した。
「ZRS4:アクロン」は1931年9月に完成し、1933年4月に大西洋上で激しい嵐に遭い下降気流で海面に墜落した。76名中救助されたのは3名であった。
同型船の「ZRS5:メーコン」はカリフォルニア沖で暴風に遭い、81名の乗組員のうち、2名が溺死した。
「LZ129:ヒンデンブルク」は、よく知られているように竣工の翌年レークハーストで爆発炎上し、乗員乗客97名中35名が犠牲になった。
「グラーフ・ツェッペリン」が9年近くのあいだに590回の飛行で、169万km以上の距離を飛び、乗員乗客3万4千人を輸送し、その間1人の犠牲者を出さなかったのは偶然ではない。
エッケナー博士はDELAGの飛行船で陸海軍の要員もふくめて、理論と実践で教育し、第一次大戦中陸海軍あわせて100隻以上の飛行船について、運航実績を分析し操船マニュアルを作成し、常に事例研究をして乗務員に徹底していた。
飛行船隊司令のシュトラッサーの指導員という立場で得た運航中の全飛行船の情報を入手し、活用したのである。
上記5例は勿論、飛行船の状態や気象・海象が異なり、それぞれの分析がなされているが、少々強引に一言で総括するとすれば、すべて飛行船の性能や構造強度を過信した無理な操船に起因すると言えるのではないかと思う。
現に「ヒンデンブルク」の事故について、エッケナー博士は飛行船を繋留柱に寄せる最後の段階で無理な操船をしたためにワイヤが破断してガス嚢を破ったと結論づけていた。
「グラーフ・ツェッペリン」も、最初の訪米時には米海軍に救助船を要請しているし、2度目の訪米飛行はエンジン不調で不時着、世界周航中のロサンゼルスの離陸、南米定期飛行中のレシフェでの不時着など、何度かもう駄目かと思われるような状況に陥りながらもそれらを教訓として生かして来たからであろう。
後継者として信頼していたレーマンが無理な操船をして「ヒンデンブルク」の尾翼を損傷させたときなどひどくなじったと言われている。
アメリカやイギリスは繋留柱を好んで採用していたが、ドイツでは殆ど格納庫に収容していた。
200mを越える「こいのぼり」が風に吹かれて向きを変えるのは見ていて壮観であるが、船体構造に大きな過重が働くのでドイツは大戦中にブルガリアのような同盟国や占領地にも飛行船格納庫を次々に建設していた。
南米定期航路で、予算のないブラジルを根気よく説得してサンタクルスの格納庫を建設させたのも同じ理由であった。
繰り言になるが、エッケナー博士がナチに抹殺されずに飛行船に乗っていたら「ヒンデンブルク」の事故は起きなかったと思っている。
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