2007年08月20日

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(飛行船:423) アルバム第2集(写真:第1回) 写真1 −弾倉の爆弾−

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海軍飛行船隊の慰霊額

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ツェッペリン・アルバム第2集の第1部には、第一次大戦の軍用飛行船の写真が集められている。

1914年6月28日、ボスニアで発生したサラエボ事件で、翌月オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦を布告すると、ヨーロッパ各国がそれぞれに締結していた軍事同盟によって相互に宣戦を布告しヨーロッパ中が戦争に巻き込まれてしまった。

巻き込まれてしまったのはヨーロッパだけではない。日本も日英同盟により8月23日にドイツに宣戦布告している。

当初、短期間で終結すると見られていたが、各国相互の複雑な関係が絡み合い、4年以上にわたり、戦域もヨーロッパに留まらず、アフリカ、中東、青島など東アジア、太平洋、大西洋、インド洋も戦場となった。

開戦当時、飛行機はやっと飛べる状態で主要な任務は敵情視察の偵察飛行であったが、この大戦の間に戦闘機、爆撃機などに分化し急速な発展を遂げた。

硬式飛行船は当初陸軍が採用し、合計で50隻以上保有していたが、1916年になって燐を用いた焼夷弾が使用されたことと、飛行機の上昇性能が飛躍的に向上したので飛行船の使用を諦めてしまった(その半数を大戦中に喪失している)。

海軍の飛行船隊司令ペーター・シュトラッサー少佐は優秀な指揮官であった。
エッケナー博士はシュトラッサー少佐の指導者として、海軍飛行船の運用実績を把握し分析し操船規範を確立し、新規開発飛行船の計画に反映したと言われている。

シュトラッサー少佐は世界大戦末期の1918年8月、新鋭の高々度飛行船「L70」に乗って飛行船の編隊を指揮してロンドン空襲に出撃し、撃墜され戦死した。

ここに掲げた慰霊状には、喪失した52隻の飛行船が刻んであるが、なかには45隻のツェッペリン飛行船、6隻のシュッテ・ランツ飛行船、とともに1隻のパーセバル軟式飛行船が含まれている。

この隻数は地上で炎上したものや事故で喪失したものも含まれている。

海軍飛行船隊の指揮官ペーター・シュトラッサー中佐の名と共に、これらの飛行船に乗り組んでいた40名の海軍将校と339名の準士官・下士官・兵卒が犠牲になった事実が記されている。

海軍の飛行船符番要領は明確であった。
ツェッペリン型飛行船は「L1」から始まる、シュッテ・ランツ型は「SL1」から始まるそれぞれ一貫番号をつけ、軟式のパーセバル型は「PL」の記号に一貫番号が符番されていた。

陸軍は「Z」にローマ数字を付け、ツェッペリン社の製造番号「LZ-3」を「ZⅠ」、「LZ-5」を「ZⅡ」などとしていた。
しかし「LZ-9」を再建し「ZⅡErsatz」とし、「LZ-15」を「ZⅠErsatz」、「LZ-19」を「ZⅠErsatz(Ⅱ)」と命名するなど、当初から符番要領が混乱していた。
その後、ツェッペリン製造番号「LZ-34」「LZ-35」「LZ-37」「LZ-38」「LZ-39」まで、そのままの船体番号で呼称し、製造番号「LZ-42」の飛行船からは、これを「LZ-72」として以降「LZ-90」を「LZ-120」とするように数値を30増やした番号にして混乱を極めた。
なお、Ersatz というのは『代船』の意である。
シュッテ・ランツ社製については製造者番号のアラビア数字をローマ数字に変えた船名で通している。

余談ながら、額の上に描かれている飛行船は垂直安定板の形状などからシュッテ・ランツ型飛行船のように思える。

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[1枚目:飛行船の弾倉に懸架された爆弾]

開戦当時、飛行機にはそれほどの搭載能力も航続距離も無かった筈であり、この爆弾は飛行船による爆撃のために開発されたものであろう。

水滴形と言うより、水を入れたゴム風船の形状そのものの様な形に、破裂して四散する消耗品にここまでするかと感じる。

後期には爆撃管制盤(「飛行船:144」参照)も使われている。


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