2007年08月10日
(飛行船:413) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(65)
(格納庫を覗く日本人達:ツェッペリン・アルバム(タバコカード集)から)
(同上:ツェッペリン・アルバム(タバコカード集)から)
(横浜市街と港:ツェッペリン・アルバム(タバコカード集)から)
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世界周航(18)
この壮挙を東京の人々に見て貰うために、まず首都・東京へ飛び、そこから世界中から来た沢山の客船が投錨している港、横浜へ向かった。
この2つの街の街路や広場で繰り広げられた興奮と熱狂の情景を記載するのは省略して、ただ、沢山の人の中に居た1人の詩人が、群衆の熱狂の様子を詩にしていたことを紹介するに留める。
1時間半の飛行の後、夕刻霞ヶ浦飛行場に着陸した。
飛行船は 有能でよく訓練された日本海軍の水兵によって手際よく格納庫に収容され、海軍が警備にあたった。
東京にはまるまる6日間滞在した。
我々のために周到に用意された歓迎行事やレセプションが計画されていたが、ハイライトはドイツ大使館で夕方行われた茶席であった。
そこには在日ドイツ人の殆どが出席していた。
翌朝 出発の準備を整えたが、残念ながら出発は出来なかった。
飛行船を格納庫から引き出すときに、飛行船を支えていた台車の1つが外れて、船体構造の桁を傷めてしまった。
それで、そこにいた海軍高官のなかで騒ぎになった。
「どうしてこんなことになったのだ?」
部下が飛行船を引き出していた不幸な将校は、恥ずかしさで立ちつくしてしまい、その場でクビになりそうになった。
私は彼を弁護して、説明を求めていた提督達にこんな事故は台車がうまく調整出来ていないか、石かなにか小さなものが軌道に挟まったときによく起こることであると説明した。
事前のテストで台車を動かして見るべきであった。
結局 彼らはその将校を弁護することで納得し、我々は日本中が注目しているなかで報道関係者に説明を行った。
その日は飛行船の補修にかけて、夜中までかかって損傷を修復した。
次の朝出発しようとした。
しかし、天気を司る神が異を唱えた!
前日の午後、暗い台風のような嵐が吹き荒れて、翌朝も強い風が格納庫に吹き付けて飛行船を引き出すことは出来なかった。
待たざるを得なかった!
将校や提督達が 出発のために再び参集した。
私は格納庫正面の椅子に腰を下ろして待っていた。
風がおさまったらすぐに飛行船を引き差すために誰も外に出さなかった。
そして、そのときが来た。
午後3時に離陸したのである。
公式には認められていない大群衆は心から見送ってくれた。
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[註1]乗下船
霞ヶ浦で藤吉海軍少佐、圓地記者(大阪毎日)、北野記者(大阪朝日)の3名の日本人が下船し、草鹿海軍少佐、柴田陸軍少佐、電通の記者らが乗り込んでいる。
「グラーフ・ツェッペリン」の機関長もウィルヘルム・ジーゲルからカール・ボイエルレに交替している。
モスクワ上空を飛べと言ってエッケナー博士に詰め寄ったソビエト・ロシアのカルクリン氏も霞ヶ浦で下船している。
霞ヶ浦からロサンゼルスまでの乗船者は20名と変わらないが、ロサンゼルスでは後述のトラブルのため乗船者を減らしてレークハーストまで運航された。
[註2]新聞報道
ロサンゼルスへ向かう出発が突発事故で延期になったが、新聞は例によって事前に作成された原稿で印刷されており、事実は8月23日の午後3時に出発したのであるが殆どの新聞は22日の早朝出発したとまことしやかに報道している。
[註3]台車と軌条
2枚目の写真に見られるように、格納庫から屋外に引き出すために造船所の船台に設けられる進水台のような軌条が設置されていた(婦人が跨いでいるのがそれである)。
直径30mを越える巨大な飛行船を載せた台車をこの上に載せ、200人を越える地上支援員がフィールドまで引き出すのである。
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