2007年07月25日
(飛行船:399) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(53)
(グラーフ・ツェッペリンのダイニング:関根著「飛行船の時代」から転載)
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世界周航(6)
レークハーストへの飛行は1929年8月1日に出発した。
その飛行は暴風のような西風を向かい風に受けたために95時間を要した。
これはエンジンのテストにお誂え向きで、その性能を発揮してくれた。
レークハーストには、ハースト新聞社の広告のために飛行船に乗ってみたいという夥しい数の希望者が待ちかまえていた。
1万人におよぶ見物の群衆の前で、8月7日の夕方遅く世界周航に向かって離陸した。
百万もの人を魅了する灯りの輝くニューヨークの上空でさよならの挨拶に旋回した。
これから神秘的で静かな闇の中に飲み込まれていった。
船上ではワインが振る舞われ、就寝前に快適な小さいキャビンで旅の成功を願って皆で飲んだ。
しかし、殆ど夜通し聞こえてくる記者のタイプライターのカタカタという音が何日も耳に残っていた。
なぜこんな我慢をしなければならないのだろう?
大西洋横断は、ことさら驚くことはなかった。
航海士とパイロットは、なお常に復習を怠らなかった。
最初に遭遇した不安定な風と天候は乱流と同様にニューファンドランドの南にあった。
そこから幾分南に行くと、南方に大規模な低気圧域があり、ニューファンドランドの東から英国海峡までの全域に広がっていた。
船尾から飛行船を前に押しやる追い風となった。
眼の下では進行方向に泡立つ波が走っていた。
そして45時間もしないうちに英国海峡の入り口に来ており、中央ヨーロッパ時間で真夜中前後にフランス沿岸上空にいた。
そのとき、2人の乗客がシャンペングラスを持ってお祝いに操縦室に入ってきた。
私の誕生日の始まりで、私はそれを忘れていた!
私の生涯における新しい年の初めを、この重要な仕事の最中に迎えたのである。
払暁にパリ上空を横切り、市場を覆い尽くした沢山の荷台や車を興味深く見下ろした。
パリの人々は豊かに食事を楽しむのだ。
正午少し前、55時間の飛行を終えてフリードリッヒしハーフェンに着いた。
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[註1]誕生日
ドイツ人は、幾つになっても人を家に招いて誕生日を祝う。
エッケナー博士も家にいれば家族や友人に祝って貰ったことであろう。
[註2]乗船者のこと
エッケナー博士の航行記には、寄港地であった沢山の催しのことも、乗船者のことも殆ど記述されていない。
主要な記述内容は、天候・気象・海象とそれを如何にして乗り切ったかという話が占めている。
彼は哲学者であり、経済学者である以上の存在であった。
戦後のドイツにあってツェッペリン伯爵の事業を引き継いだだけでなく、連続3代の合衆国大統領やワイマール共和国初代大統領フリードリッヒ・エーベルトと会見したことから判るように、ヒンデンブルク大統領の任期切れの1932年のワイマール共和国大統領選挙にヒットラーの対抗として担ぎ出されそうになるほどの大物であった。
「ツェッペリン・エッケナー義援金」の呼びかけ人には戦後西ドイツの首相になったコンラート・アデナウアーや、国民議会議長トーマス・レヴァルトほか錚々たる文化人が名を連ねていたという。
従って、安易に人の名前を書けなかったのかも知れない。
周航時の乗客については「グラーフ・ツェッペリン」メモ1(『飛行船:310』)を参照されたい。
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