2007年07月16日
(飛行船:389) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(44)
(アルプスを越えるグラーフ・ツェッペリン)
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エジプトへのセンチメンタル・ジャーニー(6)
取り得る途は3つあった。
アンディージェ渓谷からブレンナー峠を抜けるコース、ロンバルディアを横切ってリビエラに行き、そこからローヌ河口に出て往路を戻るコース、第3はディナリックアルプスからプレスバーグ、ウィーンに出るコースである。
第一のコースは不可能であった。
アルプス山岳地帯で航路を見つけるために、白昼の陽光と完全に澄み切った天候が前提であったからである。
第二のコースは非常に長い航程であり、好ましくなかった。
残ったのは第三のコースである。
しかし、これも危険とは言わないまでも、嫌なところに入り込んだら、明るい天候が必要になるので好ましいとは言えなかった。
事実、高地を越えるために1400mまで昇らねばならなかったし、ほぼ高さ2000mの二つの山の間の狭い箇所を抜けなければならなかった。
もし、この経路が雲で隠れていたら安全のために2000mを昇るしかほかに途はなかった。
しかし、非常に好ましくないことに、上昇するときに大量のガスを放出し、その結果飛行船は11トンも重くなる。
もしそのあと、重い飛行船で雨か雪の中を飛ばねばならなくなったときは、飛行船を空中に浮かせておくために僅かしか積んでいないバラスト水を投棄するほかなく、おそらく幾つかのタンクの燃料も捨てざるを得ないであろう。
非常な興奮と緊張で山越え飛行に出掛けた。
当初は望み通り順調な滑り出しであった。
まだ月は出ていなかったが、晴れていて視界は良好であった。
最も高い尾根に来ると、目の前に2つの山の側面がぼんやり大きく見えていた。
10分か15分後、その山は右と左にあり、非常に静かで山岳の迷路を通り抜けられると思った。
しかし突然、雲が山の脇に集まってくるのが判った。
ほんの僅かの間であった。
瞬く間にすべてが山の中に隠れてしまった。
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[註1]ブレンナー峠
北イタリアと南ドイツの間の峠。冬季オリンピックの開かれたインスブルクはミュンヘンの真南に当たるが、さらにその南で、イタリアとオーストリーの国境である。
[註2]プレスバーグ
現在、スロバキアのブラティスラバのことである。プレスバーグの前はポゾーニと呼ばれていた。
[註3]アルプスを越えるグラーフ・ツェッペリン
この写真は原著に載っている写真で、1929年にスイスアルプスで撮影されたもので、初めて標高4274mのフィンステルアールホルン上空を航行するグラーフ・ツェッペリンと解説されている。
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