2007年07月06日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「紺碧の海」はこちらです ***

(飛行船:378) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(34)

Bild146.jpg

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 グラーフ・ツェッペリンの最初の飛行(13)

深夜になっても風はおさまらず、格納庫から飛行船を引き出すことが出来なかった。

事態はむしろだんだん悪くなり、本当にその夜のうちに好転するのか疑われた。

このような状況で、もし一人きりで居なかったとしたら、私の飛行船船長としての経歴のうちで最も神経質になっていたであろう。

いらいらしながら格納庫の前を、その梁を吹き上げ、吹き下ろしている風のうなる音を聞きながら歩き回っていた。

今でさえ、格納庫の前を月明かりに照らされて絶え間なく歩き回る姿をまざまざと思います。
本当に真剣に悩んでいたのである。

2〜30人の記者が我慢しきれない様子で出発を待っていた。

彼らは新聞社に電話して、秒速6〜8m程度の異常な横風で我々が出発できないでおり、25人の乗客が待ちくたびれて待機していると告げていた。

なんと素晴らしい旅客用乗り物だろう。

しかし午前1時頃になって風は少し和らいできた。

我々は素早く乗客を乗せ、ドアを開けて大きな船体を外に出した。

午前2時に浮揚し、先に何が待ちかまえているか判らない冒険に出発した。

最初に、乗客が非常に夜景を見たがっていたニューヨークへ向かった。

そのときの飛行高度では秒速17mの北西の突風が吹いており、それに向かってゆっくりと北に進んだ。

午前3時に市街の上を通った。

我々は戸惑った。
無限の光の海が全方位に広がっており、驚いてこの新世界では照明にコストはかからないのかと思った。

見渡す限り、あらゆるところでボストンまでの海岸が連続した街のように光り輝いていた。

深夜の早い時間であったが、港に在泊する無数の汽船が、お別れの挨拶にサイレンや汽笛を鳴らしていた。

上空からはニューヨーカーがどれほど興奮していたか知るよしもなかったが、乗客はこの「楽しい旅」をとても喜んでいた。

そこから暗い外海に出た。
鋭く冷たい風が吹いていた。

その後、夜明けまでずっと空は澄んで星が瞬き、飛行船の速度と同じくらいの速度で冷たい突風を伴った風の吹く夜空を飛んでいた。

やがて空は曇り始めた。

厚い雲が正面の水平線に現れた。

冷たい北風が、バーミューダまで広がった低気圧のくぼみに影響を与えていたことは明らかであった。

ガルフストリームの暖気団の東端で冷気が混入し、激しい乱流と上下方向の気流を発生させたのである。

昼には驚くほど鋭い驟雨前線が飛行船のすぐ前に青黒く脅かすように横たわっていた。

突然風が激しくなり、ひどい乱流となった。

飛行船は黒い壁に飛び込んだ。
そこで激しく揺すられ、しばしば100m程度持ち上げられた。

しかし、そのときは比較的順調であり、飛行船は安定して操舵手の操作に順応していた。
この空域を航行しているあいだに、気温は6℃も上がり、7〜10℃になった。
これはギリギリ混合気団の縁にいることを示していた。

短時間後に次の激しい驟雨が来た。

飛行中に数度のスコールに遭い、気温は突然14℃になった。

しかし、まだ北の寒気団と南の暖気団のはっきりとした接触域に入ったわけではなかった。

まだやって来たわけではないが、我々はもうその対応に巻き込まれていた。

午後2時過ぎ、大変険悪な雨雲の大きな帯が飛行船の前に現れた。
とうとう来た。

飛行船は激しい下向きの気流に伴う上昇気団の上向きの力で押し上げられた。

このような場合に、飛行船が大きな上昇気流に逆らうことは意味がなく、単に船体に過大な力が掛かるにすぎないので、気団に任せておく方が良いことは学んでいた。

それで私は船体に掛かる力を軽減させるために速度を落とした。

この対応の結果、飛行船は揺れることもなく比較的安定していた。

遊園地でスイッチバックに乗っているようなもので、飛行機が驟雨前線に飛び込んだときのような不快な衝撃や、突然持ち上げられて落とされるような衝撃はなかった。

飛行船の長くて大きい船体がその衝撃を防いでいた。

この最後のスコールの波状攻撃で、霰まじりの暴風雨が飛行船に叩きつけ、騒動は飛行船の運動よりももっと激しくなった。

しかし部外者から見れば、雨雲の中でしか経験できないスコールの中の大気状態の類い希なデモンストレーションであった。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

[註1]見出しの写真
今回の写真は、このときの飛行で撮影されたものであるが、さらに進んでヨーロッパ大陸に近いビスケー湾で遭遇した暴風を撮影したものである。
タバコカードを集めたツェッペリン・アルバムの146枚目の写真である。

[註2]気象情報とその対応
飛行船の運航にあたって気象情報の入手と分析は重要であった。
最高責任者の飛行船指令には当直はないが、飛行中は昇降舵手・方向舵手・航海士のほか船長資格を持つ当直士官が3直体勢で操舵室につめていた。
昇降舵手と方向舵手は非番のときには無線で入電した情報をもとに天気図を描いていた。出来上がった天気図は当直士官か飛行船指令に手渡すことになっていた。
地上では山や川などの地形や建造物などの影響で局部的に風が吹くのでよく判らないが、障害物のない洋上では高気圧域から低気圧に回り込むように等圧線に斜めに吹き込む(南半球では空気の渦の廻り方が北半球と逆になる)。
ZRⅢをアメリカに空輸したときの話でも、このグラーフ・ツェッペリンが最初に北大西洋往復を行った話でも気象の話が詳細に長々と展開されている。
舵手の中では昇降舵手に最も経験と技量が要求された。
風や気圧変動を先読みし、大きな船体が動き出す前に当て舵を操作することが求められたからである。
往航時の船体傾斜についてもエッケナー博士は昇降舵の操作が遅れたためと考えていたことは既述の通りである。
それでも「グラーフ・ツェッペリン」は1937年5月8日に最後の飛行を終えるまでの9年間に、590回もの飛行を無事故で達成し、17,177時間、距離にして170万kmと言う大記録を残している。
1932年からは南米航路に就航し、32年9回、33年9回、34年12回、35年16回、36年に16回の往復飛行を無事故で完遂している。
もし、エッケナー博士がヒットラーやゲーリングから疎まれて外されなくて「ヒンデンブルク」も彼の責任で運航されていればレークハーストの大惨事は起きなかったのではないかと思えてならない。

Comment on "(飛行船:378) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(34)"

"(飛行船:378) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(34)"へのコメントはまだありません。