2007年06月23日
(飛行船:365) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(21)
(母港における「グラーフ・ツェッペリン」:コレクションの絵葉書から)
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グラーフ・ツェッペリンの最初の飛行(1)
新造時に何時も実施するエンジン評価のための36時間連続飛行で、大都市を巡航することにした。
このエンジン耐久試験は1928年9月18日に実施されることになっていた。
その日の午前8時に離陸して、ボーデン湖を短時間周回したあと、針路をニュルンベルクに向けた。
そこから ライプツィヒ、ドレスデンを通ってベルリンに行き、そこからハンブルクを経て北海に出てそこで夜間巡航を行うことにした。
その後 デュッセルドルフ、ケルン、フランクフルトをまわって帰港する予定であった。
航路は。予め知らせてあったので、当然 それぞれの街では興奮し期待して待っていた。
しかし、そうはならなかった。
我々がまだ、ウルムとニュルンベルクの間にいるとき、飛行船上で受けた天候状況は、雨を伴った低い雲がライプツィヒとベルリンの上に広がっていると報じ、その地域では地上から飛行船を見ることが出来なくなった。
それで予定を変更した。
西に向かい、フランクフルト、マインツを経てライン川まで行き、そこからライン渓谷を北海まで下ることにした。
沢山 人の集まっているところでは、凱旋行進のようであった。
進むにつれて、興奮はさらに激しくなった。
我々の到来が 予め知らされていたからである。
ケルンとデュッセルドルフでは、数千人の人々がラインに架かる橋の上から手旗で歓迎してくれた。
ちょうど、1908年にLZ-4がエヒターディンゲンの事故で失われて、ツェッペリン義援金がもたらされたときと同じような状況であった。
そう、ツェッペリンに対する熱狂が再現したのである。
それは明らかに 以前のときより強烈であった。
夕暮れ近くに オランダ国境に近付いた。
そこで オランダのフックと呼ばれるフリジア諸島を越えて北海に出て、そこで巡航しながら夜明けを待ち、そこから翌日ブレーメンに向かうことに決めた。
私は政府の代表や記者達のいる乗船客に、針路をナイメヘンからアムステルダムを通過して北海に出て、英国海岸のハリッジに向かうと告げた。
事実、私自身 このルートは初めてであった。
天候がとてもどんよりしていたので、自船位置を確認するために、非常に強い光のフリシンゲン燈台を見つけようと、フリシンゲンに針路を設定していた。
そこからハリッジに向けて航路を海図上に描き込んだ。
翌日訪れた ハンブルク、キール、ベルリンその他の大都市では、歓迎と熱狂は前日と同じように盛大であった。
人々はツェッペリン飛行船の再来を見、それに最新技術の成果を感じ、ドイツ人が平和と国際和解を喜ぶように、素晴らしい業績を期待した。
10月10日、グラーフ・ツェッペリンが、アメリカへの飛行に備えて横たわっていたとき、人々の期待と緊張は、計り知れないものがあった。
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[註1]グラーフ・ツェッペリンの最初の飛行
この章のタイトルは "Die ersten Fahrten des >Graf Zeppelin<" となっているが、試験飛行が終わってからも「LZ-127:グラーフ・ツェッペリン」は、短期間のうちに国内飛行を行っており、字義通りの最初の飛行は当然国内飛行であった。
ここで言う最初の飛行とは、最初の渡米飛行を指している。
ツェッペリン・エッケナー義援金を呼び水にしてなんとか建造したものの、世界に認識して貰うために不可欠な世界周航の資金のスポンサー探しを兼ねて大西洋を越えてアメリカに飛ぶ必要があったのである。
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