2007年06月10日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「紺碧の海」はこちらです ***

(飛行船:352) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(8)

Bild35.jpg
(「L9(LZ-36)」:ツェッペリン・アルバム(タバコカード集)から)

Bild36.jpg
(北海を飛ぶ「L11(LZ-41)」:ツェッペリン・アルバム(タバコカード集)から)

Bild37.jpg
(「L12(LZ-43)」の銃座:ツェッペリン・アルバム(タバコカード集)から)

Bild38.jpg
(スーパーツェッペリン「L30(LZ-62)」:ツェッペリン・アルバム(タバコカード集)から)

Bild40.jpg
(高々度飛行船「L48(LZ-88)」:ツェッペリン・アルバム(タバコカード集)から)

Bild42.jpg
(アフリカ船「L59(LZ-104)」:ツェッペリン・アルバム(タバコカード集)から)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(続き)

海軍省は民間人である私の義勇志願を受理し、私に飛行船指揮官を訓練する教官に採用した。

それで、私は理論と操船実技の両面から飛行訓練を行った。

まもなく、訓練飛行は戦闘空域に巻き込まれ、北海の一角で訓練用飛行船は、偵察海面に出動した。

私は、特別に優秀で有能な「海軍飛行船隊司令」であるシュトラッサーと懇意になり、いろいろな場面で彼にアドバイスすることが出来た。
このためもあり、海軍飛行船隊は増強され、活躍の場を拡げていった。

シュトラッサーは、陸軍飛行船部隊で普通に使われている大型飛行船に不慣れだったので、ツェッペリンで建造する、さらに高性能な飛行船には同意しなかった。

彼は、この規模の飛行船を、明らかに軍事行動で効率の良い適切な大きさを超えていると認識していた。

もし、シュトラッサーのような男が、2〜3年早く彼の立場に居たならば、開戦時に海軍は極めて優秀な飛行船隊を擁していたことであろう。

シュトラッサーのゴールは最終的に1917年に到達した。
敵の防御網が、地上の対空砲火と性能改善された飛行機で強化されるなかで、飛行船にはそれ以上何も出来なかった。

ちょうどその頃、ツェッペリンは戦争開始後、最初の2〜3年、非常に有効な性能改善をなし遂げていた。

非常に優秀な将校に率いられた飛行船が、北海全域を偵察・監視し、その結果、大幅に巡洋艦戦隊を駆逐した。

ジュットランド海戦では、最初は悪天候に妨げられたが、飛行船が高海艦隊司令長官に戦況を報告することが出来、その情報によって重大な決断が下され、ドイツ海軍は多大な損害を免れたことは間違いないと思われる。

彼らは強大な敵艦隊の接近を知らせたのである。

開戦1年目のロンドン空襲は、もしさらに大きく、高々度で安全に操縦できる飛行船によってなされていたなら、過大評価されることはなかったと思う。

ご承知のように、針で突いたような爆撃であった。
痛いけれども針で突いたようなものである。

それは機会を逸した悲劇であった。

水兵の反乱が起きたとき、私は帰郷した。
1918年11月のことである。

私は、そのとき既に、大戦のなかで最も興味をそそられることについて、間近にいて徹底的に精通していたので、飛行船が商用航空機として価値のあるものへと徐々に発展してゆくことについて理解することが出来た。

大西洋横断飛行船は現実になった。

しかし、大戦の和平条件は当初、それを造ることも飛ばすことも禁じていた。

この先、何が出来るのだろう?

ツェッペリンのアイデアは、その可能性を実現した瞬間に死んだのであろうか?

私の目の前に横たわっている課題は、その縛りを解き放そうとしていた。

 (「序」の終わり)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

[註1]
飛行船隊の指揮官に任命されたとき、シュトラッサーは海軍少佐か中佐であったであろう。
原文では Captain Strasser とあるが、キャプテンとは陸軍では大尉、海軍では大佐に相当する階級である。
陸軍では中隊長くらいであり「頭、リーダー」程度の感覚であり、独身か妻帯かという年齢であるが、海軍でキャプテンと言うと軍艦の艦長であるから、兵学校を出て可もなく不可もなければ予備役になる前に到達する階級である。
資格・階級を表す称号と組織内における配置を示す称号は紛らわしい。
平時と戦時では軍隊の規模は桁違いに変わるので、准将とか准尉なども設けられた。
ロシア軍や中国軍では、日英米などと異なる階級もあり、邦訳するときに三等大将とか、上級大佐などと苦し紛れの怪しげな階級を見ることがある。
民間でも同様の事情があり、この回顧録でも「船長」を個人の資格で用いたり、飛行船運航の責任者として用いたりしているので注意を要するところである。

[註2]
世界大戦が始まると、爆弾の搭載量を増やし、航続距離を伸ばすためにツェッペリン飛行船は改良され、大型化した。
これの一連の飛行船はスーパーツェッペリンと呼ばれた。

[註3]
英国の迎撃戦闘機の急速な性能改善により、高々度まで邀撃されるようになると、船体を軽くして、高々度まで行動できる飛行船も開発された。
英語でハイトクライマーと呼ばれる飛行船群である。
船内には酸素ボンベを積み、配管で乗組員に酸素を供給出来るようにはなっていたが、耐寒服は着ていても、睫は凍り、情緒不安定、頭痛、嘔吐、反射神経や記憶にも影響は大きく、後に酸素欠乏症・高空病などと呼ばれる症状が認識された。

[註4]
1917年11月21日に占領地ブルガリアのヤンボルから、当時ドイツの植民地であった東アフリカ(現在のスーダンの南)戦線で窮地に陥っていたフォアベック将軍の部隊に医療品・兵器・弾薬・無線機などを補給しようと出発した海軍飛行船「L-59(LZ-104)」は23日にハルツーム上空に到達した。
しかし、その直前に現地のドイツ軍は英国に降伏し「L-59」はそのまま迂回してヤンボルに戻っている。
飛行距離6800km、時間にして95時間の大飛行であった。
このため2代目「アフリカ船」と呼ばれた(最初アフリカ船は「L-57(LZ-102)」)。
エッケナー博士はこれを聞いて、大西洋横断飛行に確信を持ったと言われる。

[註5]
参戦した硬式飛行船はツェッペリンだけではない。
ヨハン・シュッテ教授がSL型飛行船を開発している。企業家カール・ランツと共同でシュッテ・ランツ飛行船製造会社が設立され、シュッテ・ランツ型飛行船を20隻以上建造した。
初期のSL型はツェッペリンの特許を回避するために木製フレームで建造されたが、流線型船体形状、十字尾翼など優れた設計で、後にツェッペリンもこれらのアイデアを採用している。
さらに船体構造フレームに採用した大圏構造方式は、英国のバーンズ・ウォリス博士によって飛行船「R100」や爆撃機ビッカース・ウェリントンなどにも採用された。

[註6]
1918年11月、キール軍港で水兵の反乱が起きたのをきっかけにウィルヘルム2世は退位し、ドイツは和平に調印した。

Comment on "(飛行船:352) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(8)"

"(飛行船:352) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(8)"へのコメントはまだありません。