2007年06月06日
(飛行船:348) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(4)
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(続き)
数日後、伯爵が晩餐に招いてくれたとき、この訪問が私のこれからの生活と仕事に大きな影響を及ぼす可能性があるなどと予感せずに出掛けた。
結果は、私の予想を大きく上回るものであった。
伯爵が私に示した、彼の状態の説明によれば、すべてが非常にはっきりとした彼のアイデアに対する悪質な敵意であり、なかでも政府の官僚や組織は、昇進に絡んでプロジェクトや実験に対してあからさまであった。
プロシアの飛行船大隊は、彼ら自身いわゆる半硬式の飛行船を開発しつつあったので、最も直接的であり、その妨害は敵意に満ちていた。
伯爵の事業に関心のある技術者、科学者、産業人達は協力的であったが、アルゴイでの事故で幻滅を感じ、何もする気を失っていた。
ただ、地道ながら持続する啓蒙と宣伝活動が関心を回復させるために必要であることは明白であった。
私は伯爵に、内燃機関が大いに進展していることを告げ、彼のアイデアの実現性を信じてその方式を広報したいと述べた。
伯爵は、私の提案に感謝していたけれども、内心ではおそらくあまり信じていない様であった。
私は、個人的に言えばかなり楽天的なところがあり、私が訪問したことで世論に大きな影響を与えると思った。
これからは、以前のように知的な研究に費やす時間は少なくなると考え、私の人生をツェッペリン計画に捧げようと思った。
人生航路をツェッペリンに向けて変針し、その後の3年間は執筆だけでなく、あらゆる方法で硬式飛行船の価値と可能性を広報することに務めた。
このように「哲学者」であり経済学者は、飛行船界の人間になったが、常に努力を継続し、成功を純技術的な手法で、倫理と政策的理想に結びつけることを心掛けてきた。
ツェッペリン社は、その時点で雲のなかを飛翔し、その後悲運に見舞われるが、私は入社した年は詳細には立ち入らなかった。
これらは既に、ツェッペリン伯爵生誕百年記念に発行された私の思い出に出版されている。
この期間の記述を最小限で終えたい。
私は、この事業の積極的参加者というより、それを驚きで眺めていた目撃者であったからである。
それは、私自身の経験に留まらず、全ドイツ人の経験であった。
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[註]
この記述を読むと、エッケナー博士が転地療養に来ていたフリードリッヒスハーフェンで「LZ-2」の事故の後、まもなくツェッペリンの事業に参加したように思えるが、彼は1907年に故郷フレンスブルクに帰り、夫人の親戚の経営する新聞の編集長をしていた。
1908年に完成した「LZ-4」は成功作で、シャフハウゼン・ルツェルン・チューリッヒからブレゲンツと、スイス、オーストリアを380kmもまわる大飛行に成功した。
飛行時間にして12時間である。
ところがその後、軍の採用条件である24時間連続飛行の途中、エンジントラブルで、例のエヒターディンゲンの事故で全損となり伯爵は無一文となり、これを聞いたドイツ国民から伯爵を支援する醵金が寄せられ、600万マルクに達した。
これを資金に1908年9月、ツェッペリン飛行船製造社が、1909年11月にドイツ飛行船運輸会社(DELAG)が設立され、伯爵がエッケナー博士を広報担当役員として招いたのである。
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