2007年06月05日

*** 当ブログは2014年5月末に引っ越しました…新しい「紺碧の海」はこちらです ***

(飛行船:347) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(3)

LZ2.jpg
(LZ2:PODZUN-PALLAS-VERLAG GmbH:DEUTSCHE LUFTSCHIFFE)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(続き)

専門家は納得しなかった。
伯爵は、その「飛行船の飛行を実現する株式会社」を解散し、事件は終わったかに見えた。
しかし、世間はこの老紳士の決意を過小評価していた。

彼はそれで落胆したわけではなく、殆ど自身の資金で新しい飛行船を作った。
その飛行船は85馬力のエンジン2基を備えていた。
1905年の晩秋、その飛行船は最初で、ただ1回の飛行を行った。
結果は大惨事であった。
飛行は順調にスタートしたが、強い風が飛行船を持ち上げ、どうすることも出来ないままアルゴイに飛ばされて、出発地点から20マイル離れたワンゲンに近い地点で破損した。
ツェッペリン飛行船の命運は最終的・決定的に終わったと思われた。
その飛行船は物笑いの種になり、常に、壊れやすい剛な骨組みで出来た飛行船がうまく着陸できるわけがないと主張していた専門家達は、地面に横たわる壊れた飛行船がそれを実証していると思った。
心に傷を負い、気落ちしたツェッペリン伯爵は、もう2度と飛行船を作らないだろうと思われた。

私は、この出来事の目撃者として、車で飛行船の墜落した場所に急いだ。
そこで、老伯爵が手酷く壊れた飛行船の傍に落ち着いて静かに立っており、残骸の片付けを指図しているのを目撃した。
私はその状況を、操船手段が不適切であり、特に飛行船が飛ぶときに傾斜角を作り、船体を水平に保つことが出来ない、垂直安定板が問題であることを強調してフランクフルター・ツェイトゥンクに掲載した。

それから2〜3週間後、私が庭で作業していると、メイドがとても興奮しながらやってきて、ツェッペリン伯爵が扉鈴を鳴らしていると言った。

私は居間で会おうと思い、伯爵を居間に案内するように指示した。
作業服を脱ぎ、貴賓にふさわしく身繕いをして部屋に入った。
そこに、彼はいつもそうしているのだが、きちんと整えたモーニング姿で、シルクハットと黄色い手袋を持った、礼儀正しい上流階級の老紳士がいた。
私は、彼がなぜ私を訪ねたのか不思議に思った。
彼は上着のポケットからフランクフルター・ツァイトゥンクを一部取り出し、Dr.E.とサインのある記事を指し、それを私が書いたのか訊ねた。
私が書いたというと、彼は私に、私が好意的な記述に感謝したいと言い、しかし、私の記載内容に正確でない記述があるのでそれについて話し合いたいと言った。
それから彼は、長い会話の中で、飛行船は船尾に安定板を持って居らず「尾翼」がないが、それは矢が横に逸れずに空中をまっすぐ飛ぶために矢羽根が要るように必要だと言った。
彼は努力を続ける気があるが、次につくる飛行船には安定した針路を維持するために安定板をつけなければならないと言った。
彼の話に納得するほかなかった。
伯爵は、大変に心を込めて私を招待してくれ、どんな情報でも、欲しいときに質問して欲しいと言ったので私は喜んで受けた。
人間としての興味のほか伯爵自身、飛行船をつくるアイデアに何か興味を抱いたためのように思う。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

[註1]
「LZ-2」は「LZ-1」と同じ、マンツェル沖の浮き格納庫で建造され、1905年秋に完成した。
11月30日に初飛行をしようとしたが、格納庫から引き出す際に前部調整装置が折れ、苦労の末、再収容された。
従って、最初でただ一回の飛行が行われたのは1906年1月17日である。
この点、エッケナー博士の記憶違いであろう。

[註2]
船尾の安定板には、進路を保持するための垂直安定板と姿勢(前後傾斜)を保持するための水平安定板がある。
文中に取り違えてると思われる下りがあるがそのまま掲載している。


Comment on "(飛行船:347) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(3)"

"(飛行船:347) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(3)"へのコメントはまだありません。