2007年06月03日
(飛行船:345) エッケナー博士とツェッペリン飛行船(1)
(2007/5/1:メーアスブルクの博物館で撮)
フーゴ・エッケナー博士は、フェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵の後継者として、その夢を実現した言わば飛行船の育ての親であり、伯爵と同様、硬式飛行船の同義語のように語られてきたが、亡くなって100年を越えており、間違った伝聞も多い。
独文・英文・邦文と多くの書籍や文献が発行されているが、同じ題材を扱っていても、飛行船名・地名・日時などが混同されている場合も多く、実際に発生したイベントを架空の話と片付けたり、現実には到達出来なかった飛行をあたかも史実のように見てきたように書いてあることもあり、他の研究テーマと同様、研究者の悩みの種である。
それ故、ここでも1949年に刊行されたフーゴ・エッケナー博士の回顧録 "Im Zeppelin ueber Laender und Meere " に基づいて、伯爵との出会いから飛行船の開発・運用に関わるようにようになった経緯、第一次大戦の賠償として建造してアメリカに納入した「ZRⅢ(LZ-126:ロサンゼルス」の開発・引き渡し、史上最も有名な航空機である「LZ-127:グラーフ・ツェッペリン」の開発・運航・世界周航(それまでに乗客を乗せて世界一周した航空機はなかった!)、究極の旅客用硬式飛行船「LZ-129:ヒンデンブルク」などについて考察してみようと思ったのがこのシリーズの発端である。
フーゴ・エッケナーは1868年8月1日、デンマーク国境に近いフレンスブルクに生まれた。父親ジョアンはブレーメンから移ってきたタバコ工場の経営者であったといわれ、母親アンナ・マリアはフレンスブルクの出身であった。
フレンスブルクでギムナジウムを卒業したあと、ミュンヘン・ベルリン・ライプツィヒで社会学・心理学・歴史・経済を学び、哲学と経済学で学位を取得していた。
多くの書籍によれば、若いころヨットに乗っていたので風を読むことなどに長けていたと書かれているが、ミュンヘンもベルリンもライプツィヒも内陸で川遊びすることは出来てもヨットで帆走をマスターする処とは思えない。
フレンスブルクのギムナジウムのころ、デンマークとの間のオストゼーに開いたフレンスブルクフィヨルドでヨットの腕を磨いたものと思われる。
シュレスウィッヒ・ホルスタインのフレンスブルクで生まれた彼は結婚後、転地療養のため南ドイツボーデン湖畔のフリードリッヒスハーフェンに住んでいた。
リューマチのためとか肺結核の保養とか言われている。
エッケナー博士がツェッペリンの飛行船を初めて目にしたのは1900年10月17日にフリードリッヒスハーフェンで行われた飛行船「LZ-1」の第2回目の飛行であった。
(LZ1:PODZUN-PALLAS-VERLAG GmbH:DEUTSCHE LUFTSCHIFFE)
7月2日に行われた最初の飛翔実験で、浮揚したものの舵の効きが悪く、前後の姿勢制御機構も不調で伯爵以下5名(4名説もあるが、ツェッペリン社の資料には5名となっている)を乗せて18分空中に浮いたものの長い船体が2つに折れて湖面に着水し、骨組みを補強して10月17日に2回目の実験が行われたのである。
なお、同船はその後21日に3回目の飛行で23分飛んだあと解体され、アルミ材は提供してくれたカール・ベルクのアルミ工場へ返却されたという(アルミ工場を建設したベルクも、ガソリン・エンジンを開発したダイムラーも、それぞれの市場を模索していた)。
第2回の飛行では1時間20分の飛行に成功している。
これを時折原稿を送っていたフランクフルター・ツァイトゥンク紙から依頼された博士は10月19日付けの同紙に「操縦可能ではあるが、16馬力2基では推進力不足であり、穏やかな風のもとで毎時20〜25kmの速度は遅すぎる。」と論評している。
ある資料には10月17日にフーゴ・エッケナー博士が伯爵に面会を申し込んだと記載されているが、自宅に伯爵の訪問を受け、博士が初めて会ったのは、1906年の伯爵の飛行船第2号「LZ-2」の墜落の後のことである。
私も伯爵が市井の青年を自宅に訪ねる筈がないと思っていたが、エッケナー博士の回顧録によれば伯爵がモーニングにシルクハットという出で立ちで、アルゴイに墜落した「LZ-2」の記事の載った新聞を持って訪ねてきた戸惑った様子が記されている。
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