2007年05月17日
(飛行船:327) 丁亥飛行船紀行(13) 偉人達の眠る墓地
メッセ・フリードリッヒスハーフェンは賑わっていた。
若者、お年寄り、車椅子の人など多くの男女が詰めかけていた。
4月28日から5月1日まで開催されている自動車チューニングの国際イベントであった。
Jは非常に面白かったようでCONTAXのディジタルカメラで数十駒撮影していた。
ディジタルカメラは、こんなとき非常に便利で、ある程度容量のあるメディアを装填していれば不要な画面を消去することで撮影を継続する事が出来る。
以前のようなフィルムのカメラであればX線照射で被曝する心配や、予備フィルムの残数を気にする必要があったが、今回の旅行ではこれらの心配は無用であった。
車椅子の人も数人見かけたし、犬を連れてきている人も少なくなかったようである。
中庭には飲食品などの店もあり、裏では実車によるショウも行われていた。
場外展示場で日本メーカーの出品も展示されていた。
なかなか大きなメッセ会場であった。
メッセの本部棟である。
市内中心部からはバスが運航され、午後には帰りの客を当て込んでタクシーも待っていた。
タクシーで宿舎に戻り、一休みして土産物探しがてら街を歩いてみた。
大きな書店もあったがあまり賑やかなので素通りして絵葉書や書籍、記念切手などを求めて帰った。
宿舎に帰る途中、携帯に明日一番のフライトが確定したと連絡が入った。
昨夜、遅くスイスからエッケナー博士の墓碑のある墓地を教えて貰ったので、市の霊園を訪ねることにした。
我々が予測していた2箇所の教会墓地ではなかった。
1〜2キロ程度のところなので市街地図を頼りに歩いて見ようと出掛けた。
街のなかに教会があった。
昔の市庁舎はこの辺りにあったらしい。
何とか市営墓地にたどり着いた。
立派な墓地である。
手入れも整っているが、それよりその広さに圧倒された。
それでもせっかくここまで来たのだから見つかるに違いないとJと手分けして探し始めた。
探し始めたら途中で方向を変える理由も根拠もない。
どんどん墓碑銘を見て歩いてゆくと数百mも来てしまった。
ちょっと途方に暮れたが、数十年前のことである。
これほど外れではなかろうと墓地の中心部に向けて戻りはじめた。
あった。
最初に見つけたのはツェッペリン飛行船の殆どを設計した設計主任デューア博士の墓碑であった。
その隣にエッケナー博士の墓があった。
肩書きも何もなく名前だけの、エッケナー博士らしい墓である。
すぐ横にレークハーストの大惨事で爆発炎上した「ヒンデンブルク」事故犠牲者の慰霊碑があった。
ツェッペリン飛行船製造に入社し、後に名艇ヴァルや巨人飛行艇DoXを開発したドルニエ博士も近くに眠っていた。
近くにカール・マイバッハの墓もあった。
彼の父、ウィルヘルムはダイムラー社の主任技師として1901年に発売されたメルセデス第1号車を設計している。
1909年にダイムラー社を退社し、カールと共にツェッペリン伯爵のために会社を設立し、ツェッペリン飛行船のエンジンを製作していた。
ツェッペリン博物館に展示してあるマイバッハ・ツェッペリンはドイツ皇帝や昭和天皇の乗っていたグローサー・メルセデス級の超高級車である。
ツェッペリン飛行船開発に大きく寄与した偉人達の墓が集まっているこの墓地を教えてくれたヴァッサー・チエさんに写真を添えてお礼を出さなくてはいけない。
墓参を終えて駅前に戻ったのは18時半であった。
木立の向こうに見える左の建屋が市駅であり、右の建物が宿舎のゼーホテルである。
"(飛行船:327) 丁亥飛行船紀行(13) 偉人達の眠る墓地"へのコメントはまだありません。