2007年04月21日
(飛行船:311) 「グラーフ・ツェッペリン」メモ(2:ヘイ女史)
ドラモンド・ヘイ女史
やはり「グラーフ・ツェッペリン」の世界周航に関する話題に、グレース・ドラモンド・ヘイ女史を外すわけには行かない。
見出しの写真は世界周航中の「グラーフ・ツェッペリン」のサロンで、レーマン船長の弾くアコーディオンを聴くヘイ女史である( Waibel,Kissel共著 "ZU GAST IM ZEPPELIN"から転載)。
関根伸一郎著「飛行船の時代」に女史が次のように紹介されている。
彼女は英国外務省高官の未亡人で、エジプトや北アフリカで仕事をしていたところ、ハースト社の記者カール・フォン・ヴィーガント氏に巡り会い、記者として一本立ちしたいと売り込み、そのまま記者になった情熱的な、多少向こう見ずなところのある女性である。
エッケナー博士は女史をすっかり気に入り、ツェッペリン飛行船取材には彼女を指名して招待したくらいだったという。
以降、「グラーフ・ツェッペリン」ではレディといえば彼女のことであった。
ロシア上空を飛行中の世界周航最初のディナーでは卓上に各国の国旗が飾られていたといわれるが、ヘイ女史の席はウィルキンス卿、ローゼンダール司令、大富豪の相続人リーズ氏、スペイン王の主治医メヒアス博士と共にエッケナー博士のテーブルであった。
暖房がないのでシベリアを飛行しているときは気温は14度に下がっていたが、彼女はレザーのコートにブーツで早朝からサロンに頑張っていたと伝えられている。
20kgという乗客携行品の重量制限にもかかわらず、彼女はロココ風の夜会服やパリ風ドレスなどサロンに現れるたびに盛装していたと言う。
ヘイ女史はその取材記で、シベリア上空で蓄音機のジャズとカクテルで行われたダンスパーティはすばらしい思い出になったと記している。
彼女は1930年に行われた「グラーフ・ツェッペリン」の南米航路開設の第1便にも招待されて乗船している。
上の写真に写っているエルンスト・レーマン船長は1896年、ルードヴィッヒハーフェンで生まれ、ベルリンで造船科を卒業し、ナチに追われたエッケナー博士の後任として社長になり、「ヒンデンブルク」の事故で亡くなっているが、彼はまた別の機会に紹介するつもりである。
この写真は Botting著 "Dr Eckener's Dream Machine" からの転載で、世界周航の前年はじめて大西洋を渡ってレークハーストに飛行したときに運転室でエッケナー博士と一緒に撮った写真である。
彼女はヨーロッパからアメリカに空路渡った最初の女性となった。
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