2007年04月20日

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(飛行船:310) 「グラーフ・ツェッペリン」メモ(1:世界周航の乗客)

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世界周航の乗客

「LZ-127:グラーフ・ツェッペリン」は全ての飛行船だけでなく、これまでに出現した全ての航空機のなかで最も著名であり、特に9年間にわたる600回近くの飛行の中でも、1929年に挙行された世界周航は最も有名なものである。

これまでこの飛行船のこの飛行に関して独語、英語、日本語など様々な言語で沢山の書籍が出版されている。

これらの書籍を読み比べてみると、日時や場所の違いが少なくない。
中には表記の問題や、度量衡の換算などによるものもあるが事実無根の記述もあり、不注意な引用による年号の違いなどがある。
それぞれの記載内容を判るところから確認しようと思ったのが事の始まりである。

しかし、無事故で輸送量と輸送量の大記録を立てたこの飛行船も、ゲーリングの命令により格納庫共々爆破されてから67年に近い年月が経過し、歴史上にかすみはじめた。

気のついたところから調べているところである。
最初は世界周航の乗客について調べてみる。

「グラーフ・ツェッペリン」の建造資金は、エッケナー博士がツェッペリン・エッケナー義援金募集のために100回以上、各地を講演してまわり、250万マルクといわれる義援機を集め、ドイツ政府の資金拠出もあって完成にこぎ着けたことはよく知られている。
この世界周航には、ドイツ、フランス、日本など世界の新聞社が資金提供したがアメリカの新聞王ランドルフ・ハースト氏のハースト新聞が必要資金の半分近くを提供する大スポンサーとなった。

そのため、世界周航の発着点はニューヨーク郊外(ニュージャージー)のレークハーストにするという条件がついた。

それで「グラーフ・ツェッペリン」の世界周航は1929年8月7日深夜にレークハーストを出発し、8月29日に帰投したという説と、同年8月15日の早朝フリードリッヒスハーフェンを離陸し、東京、ロサンゼルス、レークハーストを巡って9月4日に母港フリードリッヒスハーフェンに戻ったという説がある。
これは何れも正しいが、飛行時間、飛行距離は僅かに違ってくる。

今回は、乗客としてフリードリッヒスハーフェンから乗り組んだ20人について調べてみる。

既承の通り「グラーフ・ツェッペリン」の乗客用キャビンは上下2段のツイン10室である。

フリードリッヒスハーフェンで乗り込んだのは乗員・乗客あわせて61名で、男女の内訳は女史と呼ばれていたハースト新聞社のドラモンド・ヘイ女史以外の乗客・乗員は全て男子であったとされている。

ある記録によると、フリードリッヒスハーフェンから東京までは20名、東京からロサンゼルスまでも20名、ロサンゼルス・レークハースト間は17名で、レークハーストからフリードリッヒスハーフェンまでは23名となっている。

1929年8月15日のまだ暗いうちに乗り込んだ、乗組員以外のいわゆる乗客は、グレース・ドラモンド・ヘイ女史(ハースト社)、ハーバート・ウィルキンス卿(極地探検家)、チャールズ・ローゼンタール中佐(米海軍)、ウィリアム・B・リーズ氏(大富豪の相続人)、ヘロニモ・メヒアス博士(スペイン王主治医)、カール・H・フォン・ヴィーガント氏(ハースト社)、カウダ博士(テンポ社)、ザイルコフ博士(ハンブルク気象台)、圓地与四松氏(大阪毎日)、クリストフ・イセリン氏(スイス退役大佐)、マックス・ガイセンヘイナー氏(フランクフルター・ツァイトゥンク社)、ガービル・リーシュ氏(ル・マタン社)、ハインツ・フォン・パルクハマー男爵(ドイツ報道写真家)、ロバート・ハートマン氏(写真家)、ヨアヒム・リカルド大佐(スペイン)、ハインツ・フォン・エシュヴェーゲ=リヒベルク氏(ドイツ人ジャーナリスト)、リチャードソン少佐(米海軍)、カルクリン氏(ソビエト地理学者)、藤吉直四郎少佐(日本海軍)、北野吉内氏(大阪朝日)の20名であった。

ちなみに実際に旅費を支払ったのは26歳の大富豪の相続人ら二人だけであったという。

東京(霞ヶ浦)で、藤吉少佐、園地記者、北野記者らが下船し、代わりに草鹿龍之介海軍少佐、柴田眞三郎陸軍少佐、電通の白井記者らが乗り込んで、ロサンゼルスのマインス飛行場までの乗客数は20名で変わらない。

ロサンゼルスで3名(日本人3名であろう。草鹿少佐はここで肺炎に罹りロサンゼルスのリンカーン病院に約3週間入院している。)下船して、レークハーストまでの乗客は17名であった。

問題は、レークハーストからフリードリッヒスハーフェンまでの最終行程である。

記録によると、この区間の乗客は23名である。

もちろん、ヘイ女史のキャビンはシングルユースの筈であるから、その他の部屋は全て相部屋にしても4人超過となる。

おそらく、ゴンドラではなく主船体に設けられた乗組員の休憩室や寝室をキャビン代わりにしたのであろう。
エッケナー博士はニューヨークで下船して、最終区間はレーマン船長に託しており、乗務員も入れ替えがあったものと思われる。
(霞ヶ浦からカール・ボイエルレが乗船しており、ソビエトのカルクリン氏は下船している。)
次回は乗組員について考察してみるつもりである。

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