2006年11月05日
(飛行船:138) ツェッペリンアルバム(写真:第26回) 写真42 −アフリカ船L59−
[42枚目:アフリカ飛行船「L-59」 1917年]
1917年、戦況は楽観視出来る状態ではなかった。
数少ないドイツの植民地はアジアの青島を含め次々と連合国側に制圧されており、現在のスーダンの南に相当するアフリカの独領東アフリカも弾薬不足で窮地に陥っていた。
当時ドイツ軍が制圧していた最南のブルガリアから飛行船による補給飛行が計画された。
ブルガリアのヤンボルから海軍飛行船「L-59(LZ-104)」が11月21日に補給飛行に飛び立ち、ナイル川を遡って23日にスーダンのハルツーム上空に到達している。
関根伸一郎著:「飛行船の時代」(丸善ライブラリー)によると
『(前略)
1917年11月21日エッケナー船長の指揮で占領地ブルガリアのヤンボイ基地から出発、アフリカに向かった。クレタ島を経由、熱風の吹き荒ぶアフリカ大陸のエジプト内陸部に侵入。
地面から照りつける強い日ざしに乗員はすっかり目をやられ、殊の外過酷な旅だった。
ツェッペリン飛行船は高度1000メートルを保ち、ナイル河畔の渓谷地帯を時速70キロの速度で進んだ。
途中緊急無線が入り「フォアベック大隊は降伏を表明、ツェッペリン飛行船ドイツに帰還せよ。」という知らせが舞い込んだ。
ツェッペリン飛行船は命令通りいったんは帰還の途についたが、この情報はツェッペリン飛行船のアフリカ行きを察知した英国側の攪乱作戦だった。
再び飛行を続行、途中逆風に悩まされ、地面に着くかと思われる飛行が続いたが、ようやく現地に到着。
医薬品、銃兵器、弾薬、野戦用無線機などを補給した。
実に6757キロを走破、95時間に渡る旅だった。
エッケナーはこの飛行の成果でツェッペリン飛行船が長期継続飛行に耐えられると判断し、大きな自信を持った。
(後略)』
しかし、ツェッペリン伯爵の死去に伴いツェッペリン飛行船製造とDELAG(ドイツ航空輸送会社)の経営を引き継いだエッケナー博士が海軍飛行船の指揮を執るということもおかしい。
他の資料では地上軍が降伏したのでそのまま発進基地ヤンボルに戻ったとレポートされている。
このアルバムにも(貼付写真ではなく、台紙に)航跡図が載っているが55mm×72mm程度の小さい挿絵なので詳細はよく判らない(下図参照↓)。
C.Stephenson著「Zeppelins: German Airships 1900-40」には11月21日から25日までの航跡を描いた地図が載っている。
こちらは数ヶ所に経過時間が記入されているのでそれなりのデータに基づいて描かれたものであろう(下図↓)。
どちらの地図にも離着陸の記載がないところを見ると大回遊飛行だったとする方が事実の様に思える。
いずれにしても6800km、飛行時間にして95時間を飛行したことは事実のようである。
このため「L-59」はアフリカ船( Afrikaschiff )として飛行船史に名を残すことになり、飛行船の大洋横断飛行能力が実証されたのである。
(註:「L-57(LZ-102)」が「L-59」に先だってアフリカ飛行に成功している。このため「L-59」は2代目アフリカ船とも呼ばれた。)
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