2006年07月26日

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(飛行船:78) 『飛行船の黄金時代』 第6章:グラーフ・ツェッペリンの南米飛行(4)

LZ127@Recife.jpg

(前回からの続き)

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帰途の平均所要時間は北東の貿易風を向かい風に受けるのでおよそ10時間長くなった。
また飛行船は夜間ローヌ渓谷に戻り、朝フリードリッヒスハーフェンに到着する。
そこには飛行船工場から地上員達が出て待ちかまえていた。

ローヌ渓谷を飛行することでフランス政府に決められた航行制限と、そこで遭遇する気象条件の問題に対処しなければならなかった。

じばしば遭遇したのであるが、渓谷が雷雨で覆われていたとき12マイルの制限内で雷雲を回避することは不可能であった。

そこで外側に寄った飛行では、バルブ群で操作されたガスが雷を直接飛行船に誘電する恐れがあるので、それもまた危険であった。
ここで水素と空気の混合は大災害を引き起こす恐れがあった。

その可能性を回避するために、雷雨に遭遇したら圧力高度(気嚢が100%充填された場合の高度)を150フィート越えて上昇し、その後150フィート下げるのである。
そうすることによって引火性の水素を雷雲のある空域で排出する危険を回避したのである。

ときには650フィートか、ほぼ飛行船の長さである1000フィートくらい近くで飛行船の両側と前方で稲妻が光ると、眩い閃光によって正確な位置を把握することは殆ど不可能であった。

このような環境条件では操縦室にいるそれぞれの担当は閃光を感じた位置を当直士官に叫び、当直は閃光の見えた場所を即座に判断して直ちに飛行船を反対方向に転舵するのである。

渓谷を抜けるルートは雷雨と12マイルの制限幅でジグザグになることもあった。
操舵は、大型飛行船の旋回半径がほぼ1マイルもあったため非常に困難であった。

航路が殆ど雷雨で遮られ「グラーフ・ツェッペリン」は最も大きい稲妻を避け、ジグザグに前後に航行し、しばしば同じ軌跡を辿ることもあった。

しまいに、それほどひどくない雷雨圏では頻繁に高度を下げて雷雨の下を進んだものである。
飛行船に落雷したと思ったこともあったが、素人には不思議だと思えるかもしれないが水素ガスがバルブ操作されていないとき、飛行船の貼り合わせられた金属構造はファラデーの籠[訳者註]として作用するので特に危険はないのである。

荒天下で高度を下げる理屈は、表面に当たる上下方向の突風が水平方向になり、その方が上下方向の場合より扱いやすくなるためである。
ドイツ人達がその巨大な飛行船を非常に上手く操船したので、それが間違ってなかったと認められたのである。

(続く)

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[訳者註]:ファラデーの籠

金属で囲まれている空間には電気が届かない、いわゆる「静電遮蔽」のことである。
自動車に乗ってラジオを聞いているときに、鉄骨で囲まれた鉄橋などに入るとラジオが急に受信出来なくなるのもこの原理である。
ファラデーが1836年に、自ら金属の籠に入り、そこに落雷させて、雷が空中での放電現象であること証明したために「ファラデーのかご」と呼ばれている。

写真はペルナンブコのレシフェで繋留柱に繋がれている「グラーフ・ツェッペリン」である(同書:P55)。
フリードリッヒスハーフェンから5000マイルの飛行の後、リオデジャネイロまでの往復に備えて燃料を補給し、整備された。
帰途もフリードリッヒスハーフェンまでの飛行のために再度燃料を搭載し、水素も必要に応じて補給された。


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